第二話 卒業
無事に合格発表が終わってからは、俺と春原は半年振りに春原の部屋でまったりと過ごしていた。
そして、卒業式を明日に控えた夜。
相変わらず俺は春原の部屋にいた。
「見事に何もないなー」
「そりゃー明日の卒業式が終わったらもうここの寮生じゃいられないからねー」
春原の部屋には布団と春原の制服とカバン以外、私物は何もなかった。
借りてきたテレビも、ゲームも、ギターも。
この殺風景な部屋を見て俺は、まるで自分の中の一部分が抜けたような、そんな感覚を持っていた。
「そうだな」
「去年の今頃は早くこの学校から抜け出したくて、卒業したくてしょうがなかったのに、なんでだろうね。なんか少し寂しい感じがするよ」
春原も同じ事を感じたのかもしれない。
俺も去年の今頃は同じ考えをしていたから。
窮屈な教室。
何かとうるさい先生。
自分の身には何一つ関係ないと信じて疑わなかった全ての授業。
それらからさっさと解き放たれたかったのに、いざ卒業式を迎える今となっては春原の言葉に同意せざるを得ない。
それら全てが、もう届かない高校時代の時間の彼方に消えてしまうのだと思うと、寂寥感が押し寄せてきているのは事実だったから。
「明日はどうする?」
「どうするって何が?」
春原の唐突な質問に、俺は素直に聞き返す。
「時間通りに出るの?」
「ま、彼女がうるさいしな」
「はいはい。そうだったね。じゃー僕も時間通りに行きますかね」
そう言って春原は布団へと寝転がる。
「僕はもう寝るけど?」
今まで何百回としてきたこのやり取り。
それを今日この日までやるとは……いや、今日という日だからこそやるのだろう。
俺は少しだけ間を空けて最後のやり取りを口にした。
「あぁ、じゃぁ俺はもう帰るわ」
俺はもう来ることがないであろうこの部屋に、高校生活で一番世話になった俺の居場所に背を向けた。
寒さがまだ抜けきらない体育館の中で、俺たちは卒業式を行った。
何だかんだでこの行事に出席している俺と春原も例に漏れず卒業証書をもらえた。
校長に何か言われたが当たり障りのない言葉なのだろう、その言葉に何も感じることはなかった。
卒業式が終わり、それぞれが校舎の中や中庭など様々なところで人だかりを作って語り合っている。
式では感じられなかった感慨が、今の雰囲気からは感じることが出来た。
同じ教室で共に勉強してきた仲間、同じ部活で苦楽を共にした仲間、様々な人間と離れなければならない今日という日をみんな噛み締めているのが分かったから。
進学校のだから、他の生徒は蹴落とす敵としか思っていない奴らばかりだと思っていたが、どうやら俺の間違いだったようだ。
涙を流して抱き合う女生徒達。
頭を下げて教師と握手をしている男子生徒。
広場で胴上げをしているのはおそらくラグビー部だろう。相変わらず暑苦しい部活だ。
俺と春原はそんな奴らを尻目に、ある場所へ向かった。
高校最後の一年で一番世話になった場所。
図書室。
俺と春原は別段そこに行こうといったわけではないが、なぜか足が進んでいた。何の迷いなく。
しかし、その途中、
「岡崎!」
野太い声に呼ばれ、俺は声のする方に目を向けた。
声の主は……バスケ部キャプテン。
「岡崎。俺は、お前と一度でいいから真剣勝負がしたかった!」
目に涙を溜めるわけでもなく、足が震えるでもないのに、そいつは声だけが震えていた。
他の生徒は何事かとそいつへと振り返り、そいつが向ける視線の先──つまり俺にも視線が向けられる。
俺が中学の頃、競り合っていた他校のバスケ部キャプテン。
同じ高校だと聞いて、最初は俺の所に執拗にバスケ部に入るように進めてきた暑苦しい奴。
俺の怪我を知ってから離れていった内の一人だったが……今更になって何を言っているんだか。
俺はそいつを一瞥すると、何も言わずに背を向けた。
「いいの?」
「いいさ」
今更何を言えというのだ。俺の腕は一生このまま。真剣勝負なんてできっこない。
でも…………。
「一度くらいはしてもよかったかもな」
「え? なに?」
「なんでもねーよ」
自分の声を卒業生の喧騒へと溶かして、目的地へと歩き始めた。
「ははっ。まさか僕達が最後に寄るのがここなんてね」
「誰も想像してないだろうな」
案の定、図書室には誰もいなかった。
窓から下を見てみると裏庭では生徒がうようよいて、見ているだけで気持ち悪くなりそうな光景だ。
俺と春原は適当な椅子に座り、天井を見上げた。
「終わったんだな」
「そうだね」
考えてみれば不思議な三年間だった。
勉強が嫌い、テストの成績も悪い俺がやってこれたのもそうだ。
遅刻の事もそう。
最初にここに入学した時から、俺はきっと卒業が出来なくてやめることになるだろうと考えていたから。
スポーツ推薦入学で入ってきた野郎がスポーツをしないで学校生活がまともになるとは思っていなかったから。
でも……。
「なぁ、春原。覚えてるか?」
「何を?」
「俺たちが最初に会った時の事」
俺はそう訊ねてから、窓の外へと目を向けた。
「なんだっけ?」
「お前が暴力事件を起こして、ボロボロになってたところに幸村が俺を連れてったんだよ」
「まぁー向こうの連中の方がもっとボロボロだったけどね」
春原のいつもの威勢も、今なら不思議と心地よく感じることが出来た。
それは、当時の雰囲気を思い出せるからなのかもしれない。
「あいつのおかげかもな。卒業できたの」
「まっさかー」
春原も何か感じるところがあるのか、笑いながら答えた。
ここで威勢を張らないのが何よりの証拠だ。
──遅刻しても問題起こしても卒業できるのは、僕の計算通りさ。
いつもならこういった類の事を言うだろうから。
「そうだと思うわよ」
いきなりの扉の方から声が聞こえてきた。
ここに来るなら、あいつらしかいない。そう思っていた奴らの声。
入り口へと振り向くと、そこには杏、椋、古河、ことみがいた。
みんな同じように卒業証書を右手に持ち、そこに並んでいる。
ただ、杏の制服だけ全てのボタンがなくなっていた。
下級生に人気なのも困り者だな。
俺は忍び笑いをしていると、笑いの意図を察した杏が、
「こら、笑うな!!」
と、近づき俺の頭を叩いた。もちろん弱めに。そして、ちょうどいい所に席があったと言わんばかりに俺の隣に座った。
他の三人も続いて回りに座る。
「こんな時にまでこの席順かよ」
いつもの見慣れた勉強会の席順だった。
俺は呆れたようにため息を吐く。
でも、こんな何気ない事で全員の思惑が一致するのが少し嬉しかった。
「いいでしょ、最後なんだから。それよりさっきの話」
「ん?」
「二年に上がって学級委員長になった時、あたし頼まれたのよ、幸村先生に。二人の面倒よろしくって」
「実は私もです……」
椋もおずおずと手を上げて、杏に続いて告白をした。
「二人ともやんちゃだから迷惑かけるだろうが、根っこは優しい奴だからって」
「あのじじぃそんな事を……」
「春原さんっ! 幸村先生に対してその呼び方は失礼ですっ!」
「あ、あぁ……そうだね。そう、かもね」
古河の剣幕に押されて、春原は少し言い過ぎたと思ったのだろう、すぐにおとなしくなる。
「何もそこまで気合を入れなくてもいいんじゃないか?」
春原の口が悪いのはいつもの事。それを今になってどうしたのだろう?
俺は不思議に思いつつも、渚に尋ねてみる。何かあるのか? という意思を込めて。
古河も少しだけ気まずそうにしていたが、俺の意図を汲んだのか、少しずつ語り始めてくれた。
「私が一年生の時に担任をしていた伊吹先生という方から聞いた話なんですが、この学校に来る前の幸村先生は、凄いスパルタ教師だったらしいんです」
「うっそ」
「本当ですか?」
「信じらんねー」
「?」
俺もみんなと同じ感想だった。ただ一人を除いては。
あの人畜無害そうなお爺ちゃん教師がスパルタ教師だなんて……信憑性が全くない。
「私もみなさんと同じように驚きました。話を続けますが、それで幸村先生には、自分が目をかけた生徒は絶対に学校を辞めさせないという信念みたいなものがあったそうなんです」
その場にいる誰しもが古河の話に耳を傾けていた。
俺ももちろん例外ではない。
幸村がそんな信念を抱えて教師をしているなんてこの三年間一度も耳にしたことないからだ。
「ですが、この学校に転勤してからは自分のやることがない、優秀すぎる生徒が多すぎる。自分のいる意味がない。そう、一度だけ嘆いた事があるそうです」
「……確かにそうね。この学校は曲がりなりにも進学校。校則違反や退学になるような生徒が出るはずもないからね。……一部を除いて」
杏がそう言って俺と春原を見た。
なるほど。そういう事だったのか。だから俺と春原を引き合わせたんだな。
孤独に押し潰されて学校を辞めさせないように。
同じ輩がいれば孤独を感じる事はなくなる、そう読んだのだろう。
見事に幸村の考えていた通りになったというわけだ。
「うちの店に伊吹先生がたまに来るんです。もう先生ではありませんが……。幸村先生とたまに連絡を取っているみたいで、岡崎さんと春原さんの事を楽しげに語っていたみたいです」
「んだよ……幸村の奴……そんな事一言も」
「言ったらダメなんじゃない? そういうのって」
「はい、私もそう思います」
「なんだよ、椋ちゃんまで……」
「あ、いえ。すみません……」
「陽平、人生卒業する?」
「杏」
俺は反射的に辞書を取り出す杏を嗜めた。
春原のぶつけようのない気持ちが分かるから。
「朋也……」
杏の声も、椋の声も、古河の声も、ことみの声も、多分本当の意味では春原には届かない。
もちろん俺にも。
影で支えられてるって分かってからって、今更どうすればいいか分からないんだ。
幸村の手を煩わせていた生徒だから素直に感謝することなんて出来ない。
俺たちは問題児だったから。
「この進学校に来て自分の教師の在り方を否定され続けた六年間。きっと幸村先生にも自分の居場所がなかったんだと思います」
幸村にも居場所がなかった?
それはさすがに信じられない。
仮にも教師だ。自分の居場所なんて……。
俺がそう考えていると、古河が立ち上がって窓辺へと移動した。
「みなさん見て下さい」
古河の言葉に従い、全員が窓の前へと集まる。
眼下には未だに生徒がうようよいたが、古河の指の指す方向には……一人の人物以外誰もいない。
そいつは、独りでベンチに座って卒業生の行く末を見守っているように見えた。
「幸村先生も今年で卒業なんです。それを知っている生徒はほとんどいません。それを労う生徒も。岡崎さんと春原さんは幸村先生が目をかけた最後の生徒なんです」
幸村はベンチに座っていた。
誰も話しかけることなく、誰にも話しかけられることなく、静かにその場に佇んでいる。
まるで自分だけがひっそりとここからいなくなると言わんばかりに。
「よく分からないけど、お世話になったらいっぱいいっぱい感謝をするの。じゃないと……悲しいの」
ことみが言ったことがきっかけになったのかもしれない。
古河から自分の居場所がないと聞いたからかもしれない。
自分の孤独を省みず、人の孤独感を埋めようとした教師。
俺の中に、ある感情が芽生えるのが分かった。
「春原」
窓の外を見つめている春原に声をかける。
すると春原はこっちへと振り向き、
「あぁ。せっかくの卒業式に静かに去ろうなんて甘いと思わない?」
そう言って笑った。
「奇遇だな、俺も同じ事を考えてた」
俺も春原に笑い返す。
「僕達ちょっと行って来る!」
「すぐ済むから、待っててくれ!」
そして、図書室から飛び出し、走り始めた。
俺たちの恩師の下へ。
俺たちが到着した場所も、相変わらず近くに人がいなかった。
そこだけ別世界のように切り取られた場所になっているようで、卒業式の賑わいも遠巻きにしか感じられない。
そんな寂しい風景に溶け込むように、俺たちの恩師が座っていた。
「どうした? そんなに息を切らして」
「どうしたじゃねーよ。僕達に何か言うことあるんじゃないの?」
「ふむ……卒業おめでとう」
「あぁ」
「どうした? もう用は──」
「済んだとでも思ってんのか? このじじぃ」
「……むぅ。春原、相変わらず口が汚い奴だの」
「じいさん。いや、幸村先生」
「なんじゃ? 岡崎。改めてそう呼ばれるのも何か企んで逆に不安だの」
俺と春原は顔を見合わせて頷き、
「「ありがとうございましたっ!」」
校舎より高く、空より高く、天を突き抜かんとする声で頭を下げた。
これまでの三年間、目上の誰にもしなかった行為。
それだけの価値があるとは思わなかった。
教師なんてうざったいものだと思っていたから。
しかし、こうやって何も言わずに影から支え、卒業させてくれる教師がいた。
どれほどの迷惑をかけただろう、それは想像もつかない。
でもだからこそ、自分達を見守ってくれていた教師の最後の教え子になれる事を誇りに思えることが出来る。
幸村はどうだろうか。
俺たちは幸村が自慢できるような生徒ではなかったのかもしれない。
それでも、幸村が満足してこの学校を去る手伝いくらいは出来ただろうか。
急ぐことはないこの先の時間の中で、俺たちの事を思い出し、笑うことの出来る──そんな生徒に俺たちはなれただろうか。
なりたいと思った。
今まで世話になった時間をこの一瞬で返せるとは思っていない。
それほどまでに、俺たちの感じる恩は大きかった。
だから頭を下げた。
目一杯の声で感謝の言葉を口にした。
今までありがとうございました。あなたのおかげでこれからは強く生きていけます、そんな想いを込めて。
「ふむ……元気での」
その一言にどれだけの意味が込められていただろう。
俺たちは誰も見ていない裏庭の片隅で、時代の流れから取り残された一人の老教師に別れを告げた。
幸村への挨拶の後、図書室で記念撮影をすることになった。
古河の提案だ。
女性陣はもう大盛り上がりで、髪の毛をいじったり鏡を見たりと大忙し。
対して俺と春原はボーっとしていた。
やがて準備が終わったのか、杏から集合がかかった。
六人が揃ってカメラへと視線を向ける。
「ちょっと押さないでよー!」
「春原に言ってくれ」
「なっ! これじゃー僕が写らないじゃないか!」
「渚ちゃん、写真を取る時は──」
「椋ちゃん、この髪変じゃないですか?」
「大丈夫ですよ。あ、ことみちゃんちょっと服が曲がってるよ」
そんなわいわいやってる中、杏が小声で話しかけてきた。
「さっきのかっこ良かったわよ」
「え?」
「なんか青春してるみたいだった」
杏が笑顔で言い終わると同時に、写真を頼んだ子の声が響き渡った。
「はい笑ってー! いくよー! さん、にー、いち」
俺たちは今、この瞬間を切り取った。
二度と戻る事のない時間を振り返るために。
今の気持ちを忘れないために。
その時のみんなの笑顔はきっと高校生活の中で一番の笑顔だったかもしれない。
そして、俺たちは様々な思いを胸に高校生活の幕を下ろした。
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