ピピッ……ピピッ……ピピッ……。


「ん……」


朝の目覚ましを近くに聞きながら、あたしは布団の中で寝返りを打つ。


(うるさいわね……)


目覚まし時計の場所を確認するでもなく、あたしは手探りで目覚ましを探し当てて黙らせた。
その後、部屋に広がる静寂。
日の光を浴びて温かく、そして柔らかい布団の誘惑に、あたしの思考は溶けていく。

こんなに気持ちがいい時間をなぜ自分から手放さなければいけないのか。


(あぁ、このままずっと眠りつづ……け────)


そんな事を考える理性もまた、枕の温もりに消えてしまいそうになる。
このまま意識をまどろみに明け渡してしまおう、そう思った時だった。


ジリリリリリ!!


予備として置かれていた目覚ましがけたたましく鳴り始める。
どうやらそんな甘ったれた行動は許されないようだ。

でもこの居心地のいい布団の温もりから抜け出したくない──、あたしは枕の下に頭を突っ込んで音を遮断する努力をしてみる。

だがそれでも鳴り響く目覚ましの音から逃げられない。
結局は無駄な努力なのは分かっていた。
あたしはため息をついて、枕をどけて顔をあげる。


(昨日は遅くまでお弁当の仕込みしてたんだからもう少しくらいは寝かせなさいよね……)


心の中で愚痴を漏らし、目覚ましを睨みつける。
時計が指している時間は午前の八時。


(八時…………お弁当…………?)


「いっけない!!」


今初めて時計の時間を目の当たりにした事で、少しずつあたしの脳が回転を始めた。
今日がデートの日である事と、昨日から今日の為に仕込みをしていた事を思いだしたので、慌てて布団から飛び出す。
そしてすぐに着替えて、キッチンへと向かった。










部屋の窓から緩やかに差し込む日の光が、今日も快晴である事を告げていた。















第四話   初デート











「やばい遅刻する!!」



焦り声と共に、大急ぎで服を漁る。
時刻はとっくに十時半を回っていて、カチ……カチ……と単調なリズムで進む時計の音が嫌味っぽく、煩わしい。

待ち合わせ時間は十一時に商店街前のバス停。
急いで走っても十分はかかる道のりなので、時間的には朝ご飯も食べる余裕すらない。

俺はいつものラフな服装で外へと飛び出した。











商店街の入り口から歩いて少しの場所。
そこにバスターミナルがある。
杏との待ち合わせ場所。
十一時を少し回った頃に、俺はようやくその場所についた。
俺は切れる息を整えながら周りを見回す。

すると、待ち合わせ広場の地域図が描かれている場所に、良く見慣れた姿を見つけた。
膝くらいまである黄色と白のキャミソールに丈の短いジーンズジャケットを着て、なんていうか女の子っぽい──可愛らしい格好をしている。

しかし服装とは正反対に、表情はあまりよろしくない。
良く見れば、バスケットを持っている手を後ろで組んでいて、近くの丸柱に寄りかかるように立っている。
おそらく、結構な時間待たせているのだろう。
俺は急いで杏がいる場所まで一気に駆けた。


「はぁっ、はぁっ……悪いっ! 待たせたっ!」

「……五分の遅刻」


あまり表情のない顔で返される杏のそっけない返事。
俺は杏にちゃんと謝ろうと息を整える。


「本当にごめん」


付き合い始めてもうすぐ一年が経とうとしていたが、デートらしいデートは出来なかった。
受験勉強があったから。
だからこれは正真正銘、俺達の初デート。
さすがにそれが分からないほどに、俺は鈍感ではない。
だから俺は謝った。このデートの出だしを険悪に始めたくなかったから。


「…………本当に悪いと思ってるの?」


俺の誠意が伝わったのか、言葉の棘が少し和らいだ感じがした。
そこで俺はすかさず素直に頷く。
杏の目から視線を逸らさずに。


「はー。ほら、行くわよ」


諦めたのか、機嫌が直ったのか、杏は俺の手を取って歩き出した。


「お、おい」


慌てて捕まれた手に引っ張られていく俺に振り返り、


「今日一日、この手を離さなければ許してあげない事もないわよ?」


そう言って、杏は笑った。
その笑顔に、俺もつられて笑う。




今日は楽しいデートになればいいな。





そんな事を考えながら──。















     ◇     ◇











「うわぁー」

「すげーな」


今日の目的地に着いた俺達は、バスから降りた途端に感嘆の声を上げた。


最近出来た山林の中にあるテーマパーク。
可能な限り自然を取り入れた娯楽施設。
目の前にあるのは二本の大きな木の間に設けられた入り口。
遊園地独特の楽しげな音楽や、地を揺るがすような人々の叫び声も例外なく耳に届く。


光坂マウンテンパーク。


ここが今日の目的地だった。


「なんか楽しそうね!」

「遊園地が楽しくなくてどうするよ?」

「何その返答。冷めてるわねー。あっちが受付かな? 行きましょ」

「へいへい」


テンションが上がっている杏に手を引かれて、俺は歩き出した。
歩きながらも周りを見てみると、カップルや親子が楽しそうに話しているのを良く見かける。
みんな遊園地が楽しみなのだろう。
そう考えると、自然と手に力が入った。


「朋也? どうしたの?」

「いや……ちょっと緊張してきてな」

「緊張? ふーん、冷静なふりして実はあんたも楽しみなんじゃない」

「そうかもな」


ニヤける杏に、俺は曖昧に答えた。

遊園地なんていつ以来だろう。
今となっては記憶の彼方だが、遊んだ記憶もあったと思う。
そんなことを考えながら受付の列に並んだ。


「どんな乗り物があるのかな?」

「ジェットコースターはやっぱり激しい方がいいわよね!」

「朋也、ヘタレるんじゃないわよー?」

「オバケ屋敷もあるのかしらね?」

「あっ、あれ何だろう?」


受付をするために並んでいる間、溢れる感情を抑えられないのか杏は傍から見ても微笑ましいくらいに落ち着きがない。
いつもとは違う杏の様子を見て、俺は少しだけ心が和んだ。

──デート……か。

デートという単語から連想される、俺の人生初めての出来事を思い出した。
特に理由があったわけではない。
ただ、一瞬だけ椋の顔が浮かんだだけ。
後悔もしたし、反省もした。
そして、思い出にした事。
そしてその思い出を少しだけ振り返ろうとした時、


「大人二枚でお願いします!」


まるで図ったようなタイミングで、俺の考えを吹き飛ばすかのような杏の声が聞こえてきた。
どうやらいつの間にか自分たちの番になっていたらしい。


「はい、お二人様フリーチケットでよろしいでしょうか?」

「どうする?」

「ん? あぁ、それでいいんじゃないか?」

「じゃーそれでお願いします!」

「畏まりました。それではフリーチケットお二人様で七千円でございます」

「ほら、朋也」

「あ? あぁ」


俺は杏の言われるがままに財布を取り出す。
なんで俺が……と思ったが、杏は片手にバスケット、片手は俺の左手を握っているので必然的に手ぶらで来た俺の右手が残る。
しかし余った片手で財布は取り出せてもお金は取り出せない。


「ちょっと離していいか?」

「えぇー」


繋がれた左手を少しだけ上げて、杏に訊ねると少しだけ拗ねた声が返ってきた。


「金が取り出せないんだよ。これくらいいいだろ?」

「んー仕方ない」


渋々杏が俺の手を離すと、ヒンヤリとした風が指の間を通り抜けていく。
そんな感覚の中、俺は財布から一万円札を取り出して受付嬢に手渡した。


「一万円お預かりします。では、こちら三千円のお返しでございます。ごゆっくりお楽しみください」


営業スマイルではなさそうな受付嬢の微笑みと言葉を受けながら、俺はチケットとお釣りを手に取った。
そしてチケットの内の一枚を杏に渡して、俺は入場口へと向かう。
すると少し出遅れた杏が、俺の横に並んで拳を突き出してきた。


「はい。これ」

「何だ? これ」

「お金」

「いらん」


そう言った俺に杏は信じられないものを見たような顔をして、俺の額に手を当ててくる。


「熱なんてねーよ。遅刻してきたしな。ま、入場料はおごりだ」

「……あんたにしてはなんか気持ち悪いくらい物分りがいいわね? 変な物でも食べた?」

「……やっぱ金返せ」

「あはは、冗談よー! ほら、早く行こう!」

「まったく」


そして俺達は再び手を繋いで入り口をくぐった。









     ◇     ◇








「ほら、あそこ」


入り口付近にあったパンフレットを眺めてから、杏は顔を上げて右前方を指差した。
指の先にあるのはマウンテンライダーという、山の中を刳り貫いたジェットコースター。
このテーマパークの代名詞というべき物を最初から堪能するようだった。


「朋也、あれに乗ろうよ!」


そう言って振り向いた杏の目は輝いていて、断る事が出来ない。
……もとより断る気はないが。


「いいけど、混んでるんじゃないのか? 他の見なくていいのか?」


そう、実を言うと俺はこのテーマパークの下調べをしていない。
それは隣を歩く杏も同じ。
というか、杏に下調べは禁じられていたのだ。
杏曰く、


「その場で新しい物を開拓する方が楽しいでしょ?」


ということらしい。
面倒な手間が省けたので俺としては大歓迎だった。

しかし、前情報無しといえど、やはり人に聞いたり、テレビを見てたりという程度の情報は知っている。
そして目の前にあるものがどれほどの人気なのかを。
だからある程度の覚悟はしていた。

していたのだが──。


「二時間待ちだってよ?」


スタッフの掲げているプラカードを見上げて俺は再度、そこに書かれている文字を口に出した。
そのスタッフの後ろには人、人、人。
商店街で見かける列とは比べ物にならないくらいの人の波。
それでも並んでいる人達は嫌な表情を浮かべることなく、むしろ楽しそうに笑っている。
予想を遥かに上回る人の多さに俺は少しだけ呆れた。
いくらなんでもこんなにいるとは……。


さすがの杏もこの状況に少しだけ唸りの声を上げている。
時計を確認すると、時刻はすでに正午を回っている。
昼飯時だから少しだけ少なくなっているのだろうが、それでもこの量は凄まじい。
今を逃せば、もう一時間後にはゆうに三時間待ち位にはなるだろう。
だが、今から並んで乗り終えるのが二時半位。
このテーマパークを楽しみにしていた杏にとって、この問題は切実に頭を悩ませる問題らしい。
少しだけ悩んでからやっと決心がついたようだった。


「仕方ない。諦めますか」

「懸命だ。乗り物はこれだけじゃないしな。他どこいく?」


ため息と共に出た杏の結論に、俺は頷いて訊ねた。


「お手軽に時間が潰せて、それでもってあまり並ばない場所……。うーん、このお化け洞窟とかどう?」

「……洞窟? 屋敷じゃないのか。へー面白そうだな」

「そう? それじゃー、レッツゴー!」


先ほどの落ち込みっぷりから一転して、意気揚々と歩き始めた杏。
俺は苦笑しつつも、その後ろに続いた。

















「いやーーーー!!」

「ちょっとどこ触ってんのよ! 変態!!」

「ほら、何ボケッとしてんの! 早く行くわよ!!」


と、こんな感じでお化け洞窟で散々騒ぎまくった杏。
洞窟という事もあるので声が響いて、自分の叫び声にもリアクションをする始末。
しかし、


「あー楽しかった!」


いざ終わってみればそんな事を言って、ベンチに座ってアイスクリームを舐めていた。


「元気な奴だな。さっきはあんなに騒いでたのによ」


呆れるように感心している俺に杏は一言。


「あれは雰囲気を楽しむもんなのよ」


あっさりと言い放つ辺り、本当にそう思っているのだろうか。
こいつのポーカーフェイスは、相当追い詰められない限り読めないから分かり辛い。
ふーん、と俺は頷くと杏から視線を逸らした。

少しだけ意識してしまった事があるから。
やましい事があったわけでは……ない。
ただ、洞窟でずっと腕から離れる事はなかったあの感触。
それがまだ俺の腕にあるようでどこか落ち着かない。俺は未だ、あれに慣れていないのだ。
だからなんとなく杏を直視できなかった。


「……どうしたの?」

「いや、なんでもない」


俺の態度に疑問を持ったのか、杏が俺に怪訝な顔で声をかけてきた。
そして俺はやはり目線を逸らしつつも、杏に答える。
不審に思われていても仕方がない。こんな事恥ずかしくて言えるわけがないだろう。


「ちゃんとこっち見て言ってよ」


だんだんと声のトーンが下がっていく。
杏を怒らせるとまずいが、俺もこんな事を言いたくはない。

そんな事を考えているうちに杏は立ち上がり、俺の前に来ると顔をがっちりと両手でロックした。
いつのまにかアイスを食べ終えていたらしい。


「怒らないから、言・っ・て・ご・ら・ん・な・さ・い?」


笑顔でいう杏の言葉に身の危険を感じたので仕方なく、俺は観念した。
俺のプライドなんて本当、風に飛ばされる位に軽いのかもしれない。


「さっきお前が抱きついていた間……お前の胸が当たってて、その……な」

「なっ!!」


理由を最後まで言い切らずとも、杏は俺の意図を理解してくれたらしい。
大助かりだ。こちらとしても最後まで言いたくはない。
そして恐る恐る杏の顔を覗きみると、これでもかという位に赤くなっていた。


「な、なんて事言うのよ! あたしが怖がってるのを良い事にそんな事考えてたの!? バカ! 最低! 変態!!」


ドサクサに紛れて出てきた杏の本心。
やっぱり怖がってたのか。
俺はあえてそこを言及する事はせずに、謝る事にした。
しかし、ただ謝るのは癪だ。完全に俺が悪いわけではないのだから。
なので一応補足をつけ足す事にする。


「落ち着けって。悪かった。でも、お前が言えって言ったんだぞ?」


それがよくなかったのかもしれない。
更なる火種を巻いてしまったと気付いたのは杏の顔を見てから。


「少し誤魔化したりしてもいいでしょうが!」

「誤魔化したのばれたらもっと怒るじゃないか」

「当然でしょ」

「なら正直に言うべきだろう」

「少しは気遣いなさいって言ってるの!」

「なん──」


なんだよ、全部悪いのは俺かよ! と言いかけたところで俺は口を噤んだ。
周りの様子が少しおかしい事に気付いたから。
正確に言うと、様々な人達が俺達へと視線を向けていた。
どうやら熱中しすぎたようだ。
俺の視線の先を見た杏もどうやら自分の状況に気付いたようで、一言も言葉を発しなくなる。
俺は心の中で仕方がないな、と呟き杏の手を取った。


「ほら、行くぞ」

「なんでそんなに偉そうなのよ!」


俺の言葉に弾かれる様に杏はまた声を上げるが、俺はそれを無視して杏の手を引き、その場から離れた。

















「ちょっと、どこまで行くのよ!」


杏の言葉に俺は足を止める。
先ほどの人目から離れるだけのつもりだったがどうやら歩きすぎたようだ。
ふと見回すと、場所も分からず適当に歩いて辿り着いた場所は……アスレチック広場。
周りには子供が走り回っていて、その少し離れた所に親がいるのだろう。
時折、子供が親の方に手を振り、それに応える様に親も手を振っていた。


子供は生き生きと楽しそうに……。

手を振り返す親は優しい眼差しで……。


「まったく。いきなり走り出さないでよね」

「…………」

「朋也?」

「あぁ、悪い。なんだ?」

「……もういい」

「?」


そっぽを向く杏の態度からは、先ほどの怒気は感じられない。
その態度がまた不思議に思えたのだが、ぐぅー、とタイミングよく自分の腹から鳴った音にその思考は掻き消された。
時間を見れば午後一時少し過ぎ。
ならばする事は一つだ。


「ここら辺でお昼にしないか? ちょうど腹も減ってきたし」


杏が手に持っているバスケット。
きっと杏が今日の為に作ってきてくれた弁当なのだろう。
自然と期待してしまう自分がいた。


「ん? もうそんな時間?」


そう言って杏は腕時計を確認した。
そして、本当だ、と小さく呟くと辺りを見回す。


「あそこで食べましょ」


杏が指差したのは、木で出来たテーブルと長椅子のある四人用のテーブル席だった。








「はい、これ。今日のお弁当は頑張ったんだから。昨日から仕込んだ豚カツでしょ、ハンバーグは手でこねる所から作ったのよ」

「おぉー」


向かい合って座る俺達の間にあるものは二重に重ねられた弁当箱。
見た事のある重箱のうちの一つを開けると、そこにはぎっしりと詰まったおかず達。
杏が言った一口サイズの豚カツとハンバーグから始まり、煮物、炒め物、サラダとバランスよく詰められている。
そしてもう一つの箱には、おにぎりとから揚げ、玉子焼きとこちらはそれだけで十分お弁当が成り立つような王道の食べ物が詰まっていた。


「どれ、お前の得意な豚カツから頂こうかな」


手元の割り箸を手に取って割ろうとした時、待ちなさい、と杏から制止の声がかかった。


「ほら、これ。先に手を綺麗にしてからにしなさいよね。あと、取り皿もちゃんとあるから」


そう言われて渡されたのはウェットティッシュと紙皿。
こういうイベント慣れしているというか、さすが抜け目がなくて真面目な奴だなと感心する。


「ん、サンキュ」


素直に頭を下げるのも嫌なので俺は軽く礼を言って、ウェットティッシュで手を拭く。
杏はそんな俺を見てニタニタと笑っている。


「なんだよ?」

「ん? 手のかかる奴だなーって」

「悪かったな。その割りには嬉しそうじゃないか」

「まぁ−ね。あんたの面倒なんてあたしくらいしか見れないだろうし」

「なめんな?」


そう言って俺は箸を割り、豚カツを掴んで口に運ぶ。
杏はそんな俺の様子を見て、水筒から飲み物をコップに注いだ。


「ん、相変わらずうまいな」

「当然でしょ? 何年作ってると思ってるのよ。でも、ありがと」

「ん、こっちも……」


俺はハンバーグに手を出して、口に入れる。

肉を口にしたらやはり欲しいのは米だな。

続けざまに俺はおにぎりを手に取り、頬張った。

うん、うまい。でも一気に頬張りすぎたかな? 少し飲み込むか。

そんな事を考えて口の中の物を食道へと押し流した──その瞬間。


「んぐっ!!」


見事に喉に詰まってしまった。

苦しい! 何か飲み物──!

そう思った時に目の前に出される紙コップ。
その奥には杏のやっぱりねという邪気な笑み。
俺は慌てて紙コップを引っ手繰ると勢いよく飲み下した。
喉の支えが一気に胃に流される感覚と共に、俺は深く息を吸い込む。


「ぷっ……。あはははっ」


俺の姿を見て、堪えきれなくなった杏の高い笑い声が緑の自然の中へ溶けていく。


「くっ」


もしかしたらこいつの罠に嵌っていたのかもしれない。
でも、うまいもんを食べているのだから仕方ないじゃないか。
そんな言い訳を自分の中ででしつつも、俺は少し敗北感を感じた。


「やっぱり、あたしが面倒見ないとダメね」


そう言って気分よさそうにお弁当を食べ始めた。



どうやら抜け目だけではなく、良く気が利くようだ。
もしかしたら近いうちに頭が上がらなくなるのかもしれない。



もう少し、しっかりしようと決めたある日の昼食時だった。











     ◇     ◇










昼食も食べて満足した俺達が次に向かった先は、ゴーカート乗り場だった。


「これ前から一度やってみたかったのよねー!」


杏は昔からこういう類の物をやった事がないらしい。
一緒にやる人がいなかったというのもあるが、ここら辺ではゴーカート自体を見かけないというのが主な理由。


そしていざ、ゴーカートに乗り込むと杏が提案をしてきた。


「朋也、競争しない!?」

「へぇー。望むところだ!」

「じゃーいくよ? よーい……スタート!!」


杏の合図で俺が前へと発進すると、あろう事か杏は全速力で俺のカーめがけて突っ込んでくる。
当然よける事が出来ないので接触した時の衝突に備えた。
と言っても目を瞑るだけなのだが。

そして予想通り、ドン! という低い音と共に衝撃が走った。


「おい! 何してんだ!」

「あははっ! 楽しーー!!」


笑ったままの高いテンションで、杏は先に走り去ろうとする。


「こら、待て!」


俺も負けじとアクセルを全快にして杏の後を追った。


「あんたなんかには捕まらないわよー!」

「ぜってー追い抜いてやる!」



そんな風にデートのはずがいつの間にか二人の対決になってしまった。
でも、これが俺達の恋愛の形なのかもしれない。


友達から恋人へ発展して、距離感が分からず戸惑う事もある。
恋人でしか手に入らない物もあれば、友達でいる事でしか手に入らないものもある。



俺はその両方を手に入れているようで、少しだけ嬉しかった。


付き合う前と変わらずに気を張らずにバカをやれる杏は、俺にとって掛け替えのない友達。

俺の事をいつでも気遣って、いつでも助けてくれるだろう杏は、俺にとって掛け替えのない恋人。


友達でもあり、恋人でもあるそんな奴を俺は捕まえたのだ。


大切にしよう。心からそう思った。










     ◇     ◇









夜の帳が下りる中、俺達はバスの後方に座っていた。


「楽しかったねー」

「そうだな」

「結局追いつけなかったねー朋也」

「あんな姑息な手を使われてなければ俺が勝ってた」

「はいはい」


杏はそう言って小さく笑った。
ずっと離さないと言わんばかりに指と指の間の隙間もないくらいに繋がれた手。
それを見ているだけで、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「杏」

「んー」

「また行こうな」

「んー……」

「?」


杏の気のない返事に違和感を覚えた俺は、杏の方へと顔を向ける。
すると杏の頭が俺の肩へと倒れ込んできた。
すっかり長くなった杏の髪が繋いだ手の上に落ちる。
俺はそっと顔を覗いた。


「すぅ……すぅ……」


静かな寝息を立てて、杏は俺の肩を枕代わりに眠り込んでしまっていた。
あれだけはしゃいでいたんだし、弁当を作るためにきっと寝る間も惜しんでたのだろう。

抜け目がない……真面目な奴だもんな。
不器用で真っ直ぐで、それでもって意地っ張り。


「お疲れさま、杏」


俺は右手でそっと杏の髪を撫でる。


「ん……」


小さく呻く杏の姿に、俺は小さく笑った。





町に着くまでの間、俺は手の平に柔らかな温もりを感じながら静かにバスに揺られていた────。














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