「やっぱりお風呂は気持ちいなー」

「椋ー? いつまで入ってるの? 時間なくなるわよー?」

「あ、もう出るから」

風呂場の外から聞こえてくるのは、私の自慢で、優しい、大好きなお姉ちゃんの声。

「そう? 服、ここに置いておくわね」

「ありがとう、お姉ちゃん」

「どういたしまして」

曇ったガラス戸に映るシルエットが手をひらひらと動かして、そのまま消えていく。

今日はみんなでお出かけ。
みんなと言うのは高校三年のときに特に仲良くなった人たちの事だ。
渚ちゃん、ことみちゃん、朋也君と春原さん。
大学の入学式で着るスーツを買いに、隣町まで行きます。
この前お姉ちゃんと一緒に買った、お揃いの服で出かけようと思っています。

「そろそろ出ようかな」

湯船から上がり、ガラス戸を開け、タオルを手にして、髪を拭いて、体を拭いて……。
手際よくこなして行く、手馴れたいつもの動作。
お姉ちゃんが持って来てくれたブラジャーを手に取って胸に当てた時、いつもとは違うことに気付きました。

「……あれ? きつい? うそ……もしかして、太っちゃった?」

着る服を間違えたのかと思い、置いてある衣服を確認。
目の前に置いてあるのはお姉ちゃんと同じ服。
はいてるのはお姉ちゃんと同じショーツ。
そして手に持っているこれは…………お姉ちゃんのブラジャー。

「えっと…………どうしよう」

お姉ちゃんが持ってきたブラは私の物じゃありませんでした。
それが明確に分かるのも……これ以上喋ったらいけない気がするのでちょっと自粛。
思わぬ事態に遭遇した私は、どうしようかと悩みます。

「うーん……でも……」

一つだけ案は浮かんだのですが、ちょっと大胆な事なので思い切りがつきません。
だけど背に腹を代えられないのも確か。

「うん」

私は小さく頷き、胸にバスタオルを巻いてそっと扉を開けました。
いくら家の中とはいえ、バスタオル一枚で歩くのはちょっと恥ずかしいです。
一刻も早く、自分の部屋に行こうと思い一歩を踏み出しました。
少し歩くと、リビングからはテレビの音と一緒にお姉ちゃんの叫び声が聞こえます。

「あー! もう、なんでそこで連れ戻しにいかないのよ!」

多分、朝のドラマを見てるのかな?
私は音を立てないようにそろり、そろりと足を前に進めます。
そして何とかお姉ちゃんに見つからないように自室へと逃げ込みました。
扉にもたれかかって深呼吸を一つ。

(また……大きくなったんだ)

私はため息と共に、自分の胸に触りました。

(今度お姉ちゃんとお風呂入る時にまた何か言われるのかな……)

一緒に入るのは嫌なわけじゃないんですが、私の胸をジッと見つめて深くため息をつくお姉ちゃんを見るのは……ちょっと複雑です。

とりあえず服を着よう。

私は引き出しに手をかけました。










第五話   とある春休みの出来事  −前編−









「…………まぁ、いいけどね」

商店街前に集合している人達を見渡しながら、ポツリと杏は呟いた。
時刻は十時を過ぎた頃。
隣町へと行く為に集まったメンバーは俺、杏、椋、古河、ことみ、春原の六人だった。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

お揃いのキャミソールに薄手のカーディガンを着ている姉妹の内、妹が姉の様子を伺う。

「別に。時間通りに全員集合すると思ってなかっただけ」

杏は素っ気無く答えると、プイッとそっぽを向いた。
…………そっぽを向いたはずなのに、拗ねた様子の杏の視線を感じるのはなぜだろうか。
この前のデートの事を根に持っているのか?
謝ったんだけどな。

「さっさと行こうよー」

春原が珍しく先頭を歩き、後ろを歩くみんなをせかす。
一先ずの目的地はバス停。

「あ、あぁ。そうだな!」

春原の空気の読めなさに助けられながらも、バス停を目指して歩き始めた。





バスに乗り、何気なく窓の外へと目を向ける。
流れゆく人、家、町並み。
どこかしら違うものなのに、なぜか見飽きてしまった感じがする景色をボーっと眺めながら──、

この道の果てには何があるのだろう?

そんなことを詩的に考えてみる。
バスに揺られながら、後ろで騒ぐ女性陣の声を遠くに感じるよう意識を向ける。
そして俺の中での結論が出た。

…………海だろうな。

詩的センスの欠片もなかった。



適度に暇を潰しながらバスに揺られること二十分。
バスが目的の地へと到着し、俺たちはその町に降り立った。

目の前に広がるのは、バス停広場に駅ビル。
フードショップにショッピングビルに銀行、ゲームセンターやパチンコと様々な建物が所狭しと並んでいる。
そして、駅ビルから流れる音楽や、ファーストフード店のPRやゲームセンターやパチンコなど、存在感をアピールするような騒音が駅前の空気を彩っている。
見ても聞いても、隙がないくらいに賑やかな場所だ。

「やっぱりここは人が多いですね」

「まぁ、なんせ『都会』だからね。ほら、ことみ行くわよ」

「うん」

ポツリと妹の呟きに答えながら、双子姉妹は仲良く世間話をしながら歩き出す。
周辺に気を奪われていることみの回収も忘れない辺り、もう扱い慣れている感じだ。

「ま、春原に言わせればここら辺全部大都会だよな?」

特にする事のない俺は、前の姉妹の会話を利用して春原に話題を振る。
もちろん、意味なんてない。単なる暇潰しの一環だ。

「うちの田舎を悪く言うなよ!!」

「あーはいはい。さっさと行くんだから、迷子になるんじゃないわよ。田舎者」

「お…………」

その直後に言われた杏の言葉を受けて何か言おうとしたのだが、春原は口を噤むと同時に歩くペースを落とした。
何を言っても言い負かされる事をやっとこいつは悟り始めたらしい。もっとも今更な事なのだが。

「だ、大丈夫です! わたし達が住んでる所もここに比べたら田舎ですから!!」

そんな春原の様子を哀れんでか、古河が力説してフォローを始める。
だが、彼女は知らない。春原にとって、俺たちが住んでいる場所ですらも十分に都会だという事を。

「渚ちゃん……やっぱり君はいい子だね……僕のパートナーにならない?」

フォロー内容は気にしていないのか、古河の言葉に目を輝かせて、古河の方へとにじり寄りながら何かを申し込む春原。

「あ、いえ……私なんて……。春原さんにはもっと素敵な方が現れますから、頑張ってくださいっ!」

しかし、アッサリと物の数瞬で断られた。

「春原君、諦めた方がいいの」

「で……ですよねー!! ははっ…………はぁ」

肩を落として哀愁漂わせる春原を背にすると、杏と目が合う。
お互い突っ込む気もない事を認識して、目的地へ向けて再び歩き出した。


街中を走る車。
どれもが慌しく走っているようで、落ち着きがない。
ガードレールを挟んでこちら側は、街路樹が数メートルおきに植えてあり、そのおかげで人の往来が激しい歩道では何度も人にぶつかりそうになる。
そんな都会の情事を目の当たりにすると、やはり自分の町が一番落ち着くという結論に至るのは必然だった。

そんな結論が出たとき、目の前の杏がふと立ち止まる。

「さーて。目的地に到着ー」

バス停から数分も経たない内に着いた場所。
杏の前に聳え立つ、巨大なコンクリートの塊。
この地域で一番の大きさを誇るデパートビル。
ここが今回の目的地だった。

ガラスの扉は休む事なく、まるで呼吸をしているかのように人を吸い込んでは吐き出している。
子供とその親。カップルや夫婦。学生に老人。
そこに入って行く人達は、心なしか楽しそうだ。
きっと休日を満喫しているのだろう。

その様子を俺はただ、眺めていた。


     ◇     ◇


「なんか若い人が多いね、お姉ちゃん」

「…………」

「みんなどうせ春休みなんじゃない?」

「それもそうですね…………お姉ちゃん?」

春原さんが私の言葉に応えてくれたのですが、珍しくお姉ちゃんの反応がなかったので咄嗟に振り返ってしまいました。
お姉ちゃんは足を止めて、少し後ろの方の朋也君を見たきり微動だにしていません。
二人の間に何かあったのかな。
少しだけ心配しつつも、きっと私が手伝える問題じゃないんだろうな、と考えて再び声をかけました。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

すると、お姉ちゃんはビックリした様子で、

「え!? あ、ごめんごめん。あーこらこら、ことみ。あまり先に行っちゃダメだってば。迷子になるんだから」

まるで今の行動を誤魔化すかのように、そそくさと前を歩いていたことみちゃんを捕まえます。

「迷子になんてならないの。ただあっちの方が面白そうだったから見に行こうとしただけなの」

「あたし達と合流できなければそれは迷子と同じ事なの。分かった?」

「……うん」

「よしっ。じゃーまずはサクッと、スーツを見に行きましょうか! ほら、朋也! ボーっとしてないで行くわよ!」

「ん? あぁ、分かった」

「椋も! ほら、行こう?」

多分、これは合図。
何もないよ、だから心配しないで。
いつも、お姉ちゃんはそういう態度を取る。

だから私も──、

「うん」

気にしないようにして、お姉ちゃんの隣に走り寄りました。



     ◇     ◇



スーツ売り場はこのデパートの七階。
俺たちはエスカレーターに乗って七階を目指す…………はずだった。

デパートに入っておよそ十五秒。
目前に控えていたスーツ売り場は、はるか向こうへと遠のいていた。

「あっ、お姉ちゃん。この服可愛いんじゃないかな?」

「あら、本当。椋、着てみれば?」

エスカレーターの脇、俺と春原の前方で、すでに五分ほど繰り広げられる女達の会話。
すでに脱線をして、あらぬ方向へと進み始めていた。
買い物だからテンションが高くなったり、脱線するのは女の性なのか。
俺はため息と共に、俺は記憶の片隅にある過去の出来事を思い出した。

それは藤林姉妹と商店街に買い物に行った時の事。
と言っても、椋とデートに行くはずが杏がついて来たのだが。
それは置いておくとして、その時の二人のテンションは凄まじいものだった。
あの人に気を使いまくる藤林椋が、俺の事を放置してのめり込む程に。
ならば──さっさとスーツを買って、あとは女性陣はゆっくり買い物でもすればいいだろう。
俺はもちろん帰るが。

一向に終わる気配のない四人組へと近づき、俺は声をかけた。

「なぁ、スーツ売り場に行くんじゃないのか? そんなの後からゆっくり見ればいいだろ?」

「あっ、すみませ──」

俺の言葉に椋が慌てて手に持つ服を戻そうとするが、それを制した杏が俺の前に立ちはだかった。

「慌てなくてもスーツは逃げないわよ」

デパートに入る前に言っていた言葉はどこへやら。
サクッと終わらせるんじゃなかったのか。
俺は至極当然の事を言い返した。

「その服も逃げないんじゃないか?」

「こんな可愛い服なんだから他の人に買われちゃうでしょう?」

「そしたら店員に言って出してもらえばいいだろう? ここに飾ってあるんだから一着だけしかないって訳じゃないだろうし」

「一着だけだったらどうするの? あんた責任取れんの?」

「……いや、悪かった。続けてくれ」

洋服一つでなぜこうも必死になれるのか。
執念というか、女というものはショッピングの邪魔をされただけで噛み付く程に怒るようなものなのか?
俺はもしかしてまずい穴を突付いているのではないか?
そう考えた俺は、蛇が出る前に俺は退散を決め込む。

「まったく。下らない事で絡んでこないでよ。ほらっ、椋。いいから着てきな?」

俺に対する時とは違う、優しさを含んだ眼差しを持って杏は椋へと試着を勧めはじめる。

「でも──」

「いいから。あたしもこれ試着してみようかな? ほら、一緒に行くなら問題ないでしょ?」

遠慮がちに周りを見回す椋を後押しするように杏は、ほらほら、と椋の背をつつく。

「杏ちゃんきっと似合うと思うの」

「これから暖かくなりますからね。それに薄手のセーターを合わせるとかしてもいいかもしれませんね」

「渚にしては珍しく良い事いうわね。それ採用しようかな」

「珍しくなんかないです……」

「ほら、拗ねてないで渚も少し見てきなさいよ」

「えっと、分かりました。頑張ります」

そんな会話を遠くから傍観している男二人。

「ねぇ、僕達は結局どうすればいいんですかね?」

「勝手にスーツ買いに行った時の事を考えれば、おのずとやる事は決まってくる」

「……待機っすね」

俺はその言葉に答えない。
その代わり、

「「…………はぁ」」

春原とため息をシンクロさせるのだった。





そして十分が経ち、三十分が経つ。
目の前の光景は未だ変わる事がない。
服を取り、試着をしてきて、元ある場所に戻す。そして違う服を取り──という繰り返しだった。
俺たちは試着の光景を眺める事はせずに、近くにあったベンチに腰をかけている。
さすがにあの女特有の香水にまみれた場所に立ち続けるのは、あらゆる意味で拷問だ。

「暇だ……」

「いつ終わるんだろうね」

「さーな。おい、暇だ」

「何するのさ?」

「知るか。何か暇つぶせる事ないのか?」

「んーじゃ、ジャンケン」

「……お前、ボキャブラリー貧困すぎ」

「じゃー岡崎は何がいいんだよ」

「…………じゃんけんするか」

「はい、決定ね。罰ゲームは何にする?」

「じゃー負けた春原が適当な子供をさらって迷子センターに突き出す」

「負けた岡崎は?」

「最初はぐーじゃんけんほい」

「やった勝った」

「くそぅ、もう一回」

「よし、二連勝」

「まだまだ」

「って待って。これ前にも同じような事したよね?」

「…………チッ。じゃーあれだ。制限しりとり」

「いいねー。なにを制限する?」

「なんでもいいや」

「なら野菜とかでいいよね? 僕から始めるよ。しりとりのりからだよね。りんご」

「…………おい」

「なんだよ。岡崎の番だぜ? それとも、もうネタ切れかい?」

「そうじゃない。お前、りんごが野菜だと思ってんのか?」

「……え? 違うの?」

「大学受かるにはこんな知識なくても受かるんだな」

俺は多分今奇跡の中にいるんだろうか。
いや、誰かの夢なのか。
夢ならどうか覚めてくれ。

「春原という途方もない馬鹿に、お前に大学は無理だという現実を教えてやってくれ」

「あの……本人にバッチリ聞こえてるんですけど」

「とにかくりんごは果物だ。今までどういう教育を受けてきたんだお前は」

「マジかよ! くっそー芽衣め」

「妹に騙されてたのかよ……っていうか、お前常識なさ過ぎな」


そんな馬鹿な事をしている間に、時計の長針が一回りする。


「ちょっとトイレ行ってくるね」

未だ服売り場から離れようとしない女性陣にある意味の尊敬を感じ始めた頃、春原は立ち上がった。

「行ってこい」

「岡崎は?」

「俺は別に我慢できるから行ってこい」

「またまたー無理しちゃってー」

「無理なんかしてないからとっとと行けよ」

「男の友情と言えばこれだろ!? 街の開放的な気分に便乗して、二人で綺麗なアーチを描くんじゃないの!?」

良く分からないが、とりあえず分かるのはこいつの言葉は意味不明だという事だ。
俺は目の前のアホに冷やかな視線を持って返す。

「…………すみません。一緒に行きませんか」

「最初からそう言え」

仕方なく出るため息を隠すことなく、腰を上げた。
物色している奴らの方を見ると、未だ楽しそうにおしゃべりをしながら選別している。
数分いなくなっても、いないことに気付かないだろう、そう思って俺たちは歩き出した。



それなりにでかいデパートなので、目的の場所は俺たちの座っていたところとは反対の端にあった。
駆けていった春原に続いて手洗所へと入る。

入って左には鏡と手洗器が三つ。
右奥には個室が二つと手洗器の奥側に小便器が五つが静かに鎮座している。
小便器の上には小さな窓があり、隣の建物のおかげで日差しは入らないが、至って普通の手洗所だった。
ある事を除いては……。

「トイレくらい静かにさせてくれてもいいのになー」

「……そうだな」

どうやら隣の建物はパチンコ屋だったらしく、用を足すときは必然的に隣から聞こえてくる電子音とマイクパフォーマンスを聞ける特等席となっていた。
隣で用を足す春原の呟きに、俺は適当に相槌を打って答える。

「まぁーどうでもいいんだけどね」

結局、自分の家から遠いデパートビルのお話なので、春原の言葉に内心頷いた。



先ほどの場所に戻り、ついでにもう半分ほど長針が回った頃。

「いやーお待たせ!」

ようやく落ち着いたのか、四人は俺たちの方へと歩いて来た。

「本当にお待たせしてすみません!」

「思った以上に時間がかかってしまいました。すみません」

「でも色々と着れて楽しかったの」

「椋もあの服買えばよかったのに」

「うん、でもサイズがちょっと……お姉ちゃんこそ最初の服可愛かったのに」

「んーなんか自分のイメージと違っててさ」

「そうですか? 杏ちゃんとっても似合ってましたけど」

謝罪の言葉を口につつも、充実した顔で感想を言い合っている目の前の女性達。
だが一つだけ気になる事があった。

「あ、あの……一つだけ質問していいでしょうか?」

俺と同じ事を考えていたのか、口を出せずにはいられなかったらしい春原は、震える声でその疑問を口にした。

「なぜ、あなた方は手ぶらなんでしょうか?」

そう。
あれだけ時間を割いたにも拘らず、事もあろうに何も買っていないのだ。
その姿は、さすがの俺も言葉を失ってしまう。
以前の買い物も時間はかかったが、夏物の服にサンダルなどを買っていた。
しかし、今回は全くの手ぶら。
春原の意見はもっともな、出て然るべき意見だった。

「すみません……」

「椋。謝らなくていいわよ。買うほど気に入ったのがなかったんだからしょうがないでしょ」

「こ、このアマ……いけしゃぁしゃぁと」

春原の中で何かが爆発しそうになるのが分かる。
無理もない。もともと気の短い人間なのだから。
さらに言うなら、俺も同じ気持ちだ。
だが──、

「ネチネチとうるさいわね……なに? 文句でもあんの? そこの単細胞四足歩行旧人類」

相手が悪かった。
相手は蛇。それも大蛇。さらに言うと毒を持っている。
どう考えても勝ち目はない。少なくとも、俺には見つからない。
しかし、春原は無謀にも自分から危険な蛇穴へと飛び込んで行った。

「あるに決まってるだろ! どう考えても時間のぶばっ!!」

しかし飛び込むどころか、穴の入り口で無残にもやられた。
戦いにもならない。一方的な蛇の勝ち。
何が起きたかというと、春原が立ち上がった瞬間、人がそれなりにいる中でもバレない早さで、杏の拳が春原の顔面を捉えたのだ。

「うるさいわね。つべこべ言ってないでさっさと行くわよ」

悪びれもなく、踵を返して歩き始める杏。
他の三人はどういうリアクションをしたらいいか分からないようで、いそいそと杏の後にくっついて行く。

「うぅ……岡崎。僕間違った事言ってないよね……」

涙目で訴えてくる哀れな春原に、俺はかける言葉が見つからなかった。



     ◇     ◇



長い寄り道をして、ようやく七階へと辿り着いた俺たち。
そこには同じ年くらいの人達があちらこちらでスーツの品定めをしていた。

「やっぱりこのシーズンは混んじゃいますね」

「そうだろうねー。とりあえず僕らの買うスーツはどこにあるのかな?」

「そこら辺にあるんじゃない? 行ってくれば? あ、朋也のはあたしが選ぶから」

「……お熱いことで」

杏の態度に春原はやるせなさと共にため息を吐き出した。
だが、俺はその言葉を簡単に肯定するつもりはない。

「勝手に決めるなよ。別にスーツくらい自分でえら──」

「なーにー? 朋也クン」

俺の言葉をあからさまに遮って、ニッコリ微笑む杏。
俺はその笑顔の前にして、喉まで出かかっていた言葉を飲み込む。
まさに蛇に睨まれた蛙。春原を撃退して素に戻ったかと思ったが、蛇は未だに健在だった。
しかし、彼女だから彼氏の着ている服を選びたいというのは分かるが……これは些か強引過ぎだろう。
それでも男のプライドというものがある。ここばビシッと言ってやらないと。

「文句あるの?」

ずい、と顔を近づける杏に、俺はとっさに口を開く。

「ないです」

男のプライドはどこへやら。
俺、何かしたか? と疑問に思いつつも、譲歩案を提案する。
ここで終わるわけにはいかない。

「でも、見て回るくらいはしてもいいだろ?」

「そりゃーいいに決まってるじゃない」

「なら俺は春原と適当に見て回るから、お前らは自分達のスーツでも決めといてくれ」

「うん。そうする」

杏は案外素直に頷いてくれた。
杏の着せ替え人形に甘んじるつもりはさらさらない。
さっさと選んで、先に買ってしまえば──。

「でも、朋也……」

「ん? なんだ?」

「勝手にスーツ決めてさらには買うなんて暴挙に出られたら……あたし悲しいなぁ。きっとショックで髪の毛引き抜いて、その毛で健気にスーツとか作っちゃいそう」

少しも悲しそうじゃない声でそう口にする杏。
むしろ生き生きしているようにも思えて仕方がない。
どうやらすでに俺の行動は読まれているようだった。
俺はどう足掻いても逃げられない事を悟る。

「あ、ちなみに引き抜くのはあんたの髪だから」

「…………先にさっさと決めてくれ」

それが俺が言える精一杯の言葉だった。
というか俺、彼氏……だよな?





「お姉ちゃん、これなんてどうかな?」

「うーん……ちょっと色がねぇ……」

「杏ちゃん、これはどうですか?」

「あ、これはいいかも。キープね」

「これは……いまいち。あ、ちょっと椋。そっちにあるの取ってくれる?」

男性スーツコーナーで忙しなく動く三人の影。
もう一つは近くのネクタイ売り場で遊んでいる。
そして俺はというと、スーツコーナー試着室前にて晒しものになっていた。

「なぁ、これは罰ゲームなのか? それとも何かの嫌がらせか?」

男性コーナーで女性、しかも高校卒業したての若い女が三人も寄ってたかって一人の男にスーツを選んでいるのは、周りから見ればかなり異質だ。

「岡崎……その言葉、おまえにそのまま血で滲んだ赤いネクタイを添えて返すよ。むしろ、ネクタイで絞め殺されてもおかしくないね」

隣の春原の言葉にウンウン、と頷く周りの男性客。
時折、痛いを通り越した殺意が混じった視線も感じる。

「はぁ……」

「ほら、朋也! 次はこれ着てみて!」

俺は三着のスーツを渡されグイグイ、とそのまま試着室へと押し込まれた。

着せ替え人形か……。
試着室で一人、自虐的に心の中で呟く。
俺はこのまま何も考えない人形になろうと思った。


そして約一時間後──。
十着近く着替えさせられた結果。

「うん、これが一番シックリ来るかな?」

今着ているスーツを見て、杏は満足気に頷いた。
「そうですね。それが一番岡崎君に似合うと思います」

「お似合いの一着が出来てよかったですね、岡崎さん」

「おめでとうなの」

「アリガトウゴザイマス」

「何よ、その態度。嬉しくないの?」

「わーい。嬉しいなー」

「喧嘩売ってる?」

「滅相もありません」

どれも俺の目にはどれも遜色ないようなスーツなのだが、満足したのならそれでいい。
正直、終盤半ば自棄になっていた俺にとっては、服が決まった事などどうでもいい事だった。
いや、そんな事はないか。
服が決まった事で、着せ替えから解放された事が一番嬉しい。

「選んでくれて本当にサンキューな。これで俺は用が済んだからかえ──」

「そんなに感謝してるなら、次はあたし達の服を見てもらおうかな」

気分良さそうな声で、最終通告を俺に下した。

「ご愁傷さま」

春原はニヤニヤしながら小声で声をかける。

「お前も付き合えよな……」

「報酬次第で考えなくはないけど?」

「この前まで女子高生だった女達のスーツショーが堪能できるぞ」

「ぜひとも、お供させてください」

高い場所から見下ろしていた馬鹿が、あっけなく地面に落ちた瞬間だった。




     ◇     ◇




「ど、どうかしら?」

試着、最初の一着。
悩みに悩んで手に取り、試着室へと入っていった杏。
数分後、試着室の一角から出てきた杏の姿を見て、俺はリアクションを忘れた。

「…………」

というか、驚きで何も言葉が出ない。

「だ、黙っていないで何とか言いなさいよ!」

「に、似合ってるぞ」

「ほ、ほんと?」

何とか声に出した俺の答えに満足したのか、杏は嬉しそうにリボンでまとめられた髪を弄んだ。
似合ってる。確かに似合っている…………のだが……。
正直に言うか、言うまいか悩んでいると、

「わはは! お前似合い過ぎ! どこのOLだよ!」

言った場合の俺の言葉を代弁するかのように、春原が目尻に涙を溜めて笑い始めた。

「…………ねぇ、そこのうじ虫。何か言ったかしら? 今のあたしは慈悲深ーいから、もう一度だけ口を開く事を許してあげるわよ?」

「……すみませんでッ!!」

地獄から這い出てきたようなプレッシャーを撒き散らし、謝ろうとした春原の頬を杏の右ストレートが抉った。

しかし、笑うまで行かなくても、本当に良く似合っている。
パリッとした白いワイシャツ。
縦に薄い線が入ったグレーのジャケットに、膝が隠れるくらいまでのスカート。

町中を歩いていたら、化粧品のアンケートを申し込まれるくらいに。
満員電車に乗っていても違和感がないくらいに。
どこかの会社でデスクに座っていても咎められないくらいに。

それほどまでに杏のスーツ姿はOLとして似合って過ぎていた。

「お姉ちゃんカッコいい!」

「杏ちゃん素敵です!」

「杏ちゃん似合ってるの」

俺と春原が感じたように、女性陣同士で通じるものがあったのだろう。
素直に杏のスーツを褒めちぎっていた。
やだー、と手をハタハタと振りながら照れる杏。
そんな四人のやり取りを見て、春原は呟いた。

「なぁ、岡崎」

「なんだ?」

「キャリアウーマンって感じだよな?」

「……ノーコメントだ」

せっかく気分良くしているのだから、わざわざ悪くさせる事もないだろう。




そして数十分後……。
俺と春原は例に漏れず、事の成り行きを見守っていた。どこかで見た光景。
そう、それはついさっき。一階で起きた出来事が目の前で起きていた。

「ね、これとか似合うかな?」

「お姉ちゃんなら何でも似合うと思うけどなぁ」

「そう? あ、これ一着しかないわね……椋の分がないわ」

「ことみちゃん、これなんてどうでしょう?」

「んー……分からないの」

三者三様。
杏については最初に試着したもので決まったと思ったのだが、どうやらそんなに簡単には行かないらしい。
俺はすでに買い物を済まし、新品のスーツを手にしていた。
無論、春原も同様に買い物は終わっている。

「女の買い物ってどうしてこんなに長いんだろうね」

「そうだな」

その時、また杏と椋が試着室へと向かったのが見えた。
どうやら女性用の試着室は広いようで、二人一緒に入れるくらいの余裕はあるそうだ。
無論、両方同時に着替えは出来ないらしいが。

すでに数えることすら飽きたため息をつきながら、春原をみるとガッチリと視線が合った。
恐らく俺と同じ事でこう考えているのだろう。

──またか……。

最初こそ杏や椋、古河とことみのファッションショーを見て感情を昂らせていた春原も、五着目くらいを試着する辺りから反応がなくなっていた。
今俺たちは、女の買い物に付き合う全世界の男に言いたい。

お疲れ様です、と。

「朋也ー!」

杏の声に目をやると、先ほど手に持っていたスーツを試着したようだった。

「これはどう?」

黒のシックなジャケットにスラッと伸びたパンツスタイルのスーツ。
これはまた大人っぽい着こなしをしていた。
どちらかと言うと、こっちの方がキャリアウーマンっぽい、と言う感想は死んでも口にはしないが。

「いいんじゃないか?」

「そっか。椋ー? そっちはどう?」

「うん、いい感じだよ」

試着室から顔を出し、おずおずと出てくる妹。
杏と同じよう服を着ているように見えるが……良く見るとこちらは切れ込みの位置が若干上になっている。
……一見どちらも変わらないようなスーツだ。

「椋ちゃん可愛いです」

「あ、ありがとうございます」

「杏ちゃんも凄く似合ってるの」

「ありがと。そっちのも可愛いわねーちょっと着てもいい?」

「うん、だったら私はお姉ちゃんの着てみるね」

しかし、目の前の女達にはだいぶ違って見えるらしい。
二人で話をつけた後、再び試着室へと戻っていく。
俺は首を捻りながらも、春原のいる場所へと戻った。

「なぁ」

「なに?」

「襟の切れ込みの位置とか気にするか?」

「はい?」

春原は俺の言葉に驚いた声を返す。返答は……目が物語っていた。
お前は何を意味の分からない事を言っているんだ、と。
春原の反応はもっともだ。俺は説明をする事なく肩を落とす。

「だよな……」

「まさか──いや……やめとくよ」

「懸命な判断だ」

まさか、と思いつつ確認を取ろうとした春原。
しかし、真実を知る事を恐れたのか。珍しくも懸命な判断をしたようで、それ以上追求してこなかった。

「朋也ー!」

「ほら、ご指名だよ」

「はいはい……」

俺は再び杏のいる試着室へと足を運ぶ。
足取りは……重かった。

「これはどうかな?」

「いいんじゃない──ん?」

「どうかした!?」

「いや、そんな気合い入れて反応しなくても。ちょっと違和感が……」

「そう? あ、でもちょっと胸元が──」

そこで杏が口を噤む。
気まずそうに口元に手を当てて、何かを思案しているようだ。
何か言いかけたようだったのだが──なんだろう。

「どうした?」

「う、うん……なんでもないわよ」

「?」

隠したい事があるんだろう、俺は良く分からないのでそれ以上の事は聞かない事にした。

「藤林はまだ着替えてるのか?」

「なに、あんたあたしのスーツ姿より椋のスーツ姿に興味あるの?」

「違うって。さっきからお前が出てきたら顔出すのにまだ出てこないから気になっただけだ」

「そ、そう」

なんだろう。杏の態度があからさまに変わっているのは明白だった。
どこがとは具体的に言えないけど、何か態度がおかしい。
俺何か言ったか?
そう考えたが、二秒で諦めた。俺が悪かったらこいつの性格上、直接言ってくるから考えるのは無駄だと判断したのだ。

「椋ちゃん大丈夫ですか?」

いつの間にか後ろにきていた古河が、椋へと声をかける。

「え、えっと大丈夫です」

試着室のカーテンの向こうから聞こえるのは椋の声。
でも、何か焦っているような感じだ。

「ことみちゃんが次にその服を着たいと言ってるので、次ことみちゃんに渡してもらっていいですか?」

「!!!!」

杏が驚きの顔でブン、と音がしそうなくらいに勢いよく古河へと顔を向けた。
続いてことみを見て一言。

「ことみ。椋はまだ着替えてるから同じの探して試着した方が早いわよ?」

「同じのがなかったの」

「あ……だったら、あの服じゃなくても──」

「あれが着たいの」

ことみが涙目になりながらそう言い放つ。

「う……」

しかし、杏も負けない位になぜだか顔に翳りが見えた。
なんだ? と思うも、口を挟んではいけないような気がする。

「椋ちゃん、そろそろいいですか?」

「あ、少し待ってください」

椋の言葉の通り待つこと三分。

「お、お待たせしました」

出てきたのは私服姿の椋だった。

「あれ? スーツは見せなくていいんですか?」

「えっと……はい」

古河の素朴な疑問に、椋は曖昧な笑顔のまま頷く。

「ことみちゃん、本当にこれ……着るんですか?」

「うん。杏ちゃんが着てるの見て、とってもとっても気に入ったの」

ことみと椋、そして古河が杏へと視線を向けた。
椋は確認を取るように。
古河とことみはおそらく、椋の視線に誘導されたのだろう。
なぜだか分からないが、三人の視線の先にいる杏は居心地悪そうに佇んでいた。

「杏ちゃん?」

古河が心配そうに声をかけると、ビクッと肩を振るわせた。

「あ、えーっとあたし着替えちゃうね!」

そう言っていそいそと試着室に戻った。

「ことみちゃん。今の内に試着してみたらどうでしょう?」

「うん、楽しみなの」

笑顔で試着室へと入っていく古河とことみ。
あの二人は本当に仲がいいな。
対して、椋は少しだけ不安な顔をしていた。

「なぁ、藤林」

「は、はい?」

少し上ずった声で応える椋。
杏の妙な態度。
杏が今着ていたスーツが少しだけ大きく感じたという事。
そして、今し方の椋の不安そうな顔。

「サイズが合わなかったのか?」

「っ!!」

声に出さないが、この様子ではその通りなのだろう。
おおかた、杏に恥をかかせない為に、試着した姿を見せなかったというところか。
さては杏、太ったな?
卒業式の時にも色々食べたもんな。女にとっては確かに一大事だ。

「大丈夫だ。黙っておく」

「えっと、お願いします……」

強そうな振りをしている反面、打たれ弱い杏の事だ。
こんな公共の場で指摘をしようものなら傷いてしまうと思ったのだろう。
お互いの事を分かっていて、言葉にしなくても庇いあえる。
まぁ、服のサイズは合わなかったわけだが、この二人は本当に仲が良いんだな、と感心した。

「お待たせ。あれ? 渚とことみは?」

こちらの事情を知らない杏が試着室から姿を現し、キョロキョロと辺りを見回す。

「二人ならさっき藤林が着てた服を試着してるぞ」

あえて知らないふりをしながら、俺は杏の質問に答えた。

「そ、そうなんだ」

興味ない振りして答えるも、その視線は試着室を捕らえて離さない。

「…………」

そのまま試着室へ目を向け続け、動かない杏。
何をそんなに緊張しているのか。
椋の気遣いでこの場を乗り切ったのだから何も心配する事はないと思うのだが……。

「なんか気になるのか?」

「え? ないないないない! ほんと、なんでもないから!」

凄い勢いでスナップを利かせながら、勢いよく手を振る。
そんな態度を取るほど心配なのか──そう思った時、ことみと渚が試着室から姿を現した。
二人の表情はどこか固く、ことみは幾分か苦しそうに見える。
先ほどまで試着をした時に、声を弾ませてこれはどうかと言ってきた二人ではなかった。

「えっと……どうした?」

重苦しい空気の中、何も語らない双子の代わりに、とりあえず出てきた二人に事情を聞いてみる。

「えっと、なんでもな──」

「この服、胸がきついの」

古河が言い終わる前に、ことみがポツリと呟いた。
そして、ピシッ、とその場の空気が凍りついた。

「あー……」

そんな空気を読み取り、俺は大きな勘違をしていたのだと理解した。
さすがにここまで言われて、気づかない俺ではない。
今のことみの一言。
杏の不可解な様子。
椋の表情。
全てが一本の線になって、ある結論が導き出される。
そして、その『答え』を口にする勇気は誰もない。
さらには誰も言葉を発しないおかげで、話題を変えることができないという悪循環。

──誰かこの空気をどうにかしてくれ……。

祈りが通じたのか、そんな空気を打開したのは──。

「なぁ、岡崎。ちょっとこいつどうにかしてくんねー?」

「パパ……」

春原と、春原の服の裾をギュッと掴んで離そうとしない、小さな女の子だった。













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