「どうでしょう?」

「カッコいいですよ! 渚!」

スーツを着るのに手間取っていたわたしを助けてくれたお母さん。

「早苗ー! こっちの準備は完了だ! さぁ、飯だ飯! 炊飯器ごと食って一刻も早くベストポジションを確保しにいくぞ──っておぉ!! 渚! まるで女教師にでもなってしまうかのような格好!! ちゃんと黒タイツ穿いてるか? って俺は娘に何を聞いているだぁぁぁ!!!」

勇ましく登場したお父さん。
今までパンを焼いていたので、エプロンをつけたままわたしの部屋にやってきました。朝からとても元気みたいです。

「あらあら、秋生さん。気合十分ですねっ! でも女教師やタイツというのは……?」

「い、いや……なんでもない。それより、娘の晴れの入学式なんだ! テンションがあがらないで何が父親か! ひゃっほーぅ!!」

「でも、お店は……」

「店は無人営業だ! 店よりも大事なことがある。それは渚──お前をこのデジタルカメラの中に閉じ込めて、俺の元で永久に可愛がってやる事だぁ!!」

「それはいいですねっ! 渚、わたしも可愛がって良いですか?」

「はいっ! えっと、できれば優しくしてもらえると嬉しいです。あ、でも無人で営業は駄目です! 危険ですから……」

「じゃー今日は休みだ!! 焼いたパンは新入生に配ってやろう! 古河パンの宣伝も兼ねてみるか? いや、それより『渚の友達になってください』と言って渡すのもいいな。これぞ一石三丁じゃないか? ここまできたら更なる高みを目指してみるべきだな……。そうだ、手っ取り早く早苗のパンをしょぶ──」

「わたしのパンがどうかしましたか?」

「い、いや……なんでもないぞ。うん、決してな。ほら、渚を可愛がってやろうじゃないか!」

どうやらお父さんもお母さんも乗り気なようで、お店を休んでまでわたしの入学式を見に来てくれるそうです。
嬉しいですけど、なんだかちょっと照れちゃいます。

「よーし、渚を一生羽交い絞めにして娘にもやらず、俺の老後を一生面倒見させてやるぞーう!!」

「ダメですよ、秋生さん。渚には渚の人生があるんですから」

「む……そうか。なら早苗。老後は俺の世話をしてくれるか?」

「はいっ! わたしで良ければ秋生さんの世話をさせてください」

「ぐぉぉ……やっぱりお前は最高の女だぁぁぁー!!」

毎朝のことですけど、お父さんとお母さんは朝から仲良しです。
そんな二人を見るだけで、わたしは笑顔になれます。

「よーし、腹が減ってはテロは起こせねぇ。者共、飯にするぞ!!」

「そうですね、渚も朝ごはんにしましょう!」

「あ、はい!」

今日は大学の入学式。

「いい天気になりそうです」

開いた窓から、少し強めの風が入り込み、風に乗った桜の香りが家の中を満たします。
わたしはその香りを胸いっぱいに吸い込みました。
きっと今、外の世界はこの香りに包まれている。他の人と、みんなと繋がっている。そう思うと、なんだか嬉しい気持ちになります。
きっとみんなもこの春の心地よさを感じて、嬉しい気持ちになっていると思います。

「渚ー? ご飯が冷めてしまいますよー?」

「はい、今行きます!」

わたしは窓の扉を閉め、外の世界に一時の別れを告げて、お母さんとお父さんのいる所へと急ぎました。






第七話   入学式





青い空と白い雲──。
物語でよく見かけるような、そんな言葉がしっくりくる空模様。
乾いた空気に爽やかな風がそよぎ、その心地良さはまるで新しい門出を祝ってくれているかのよう。
そんな陽気の中、新品の真っ白なワイシャツと、卸したての紺色のスーツで身を包み、鈍く黒光りしているローファーで、大地を踏み締めていた。

いつもとは違う出で立ちで、いつもと変わらない町並みを歩く。
一歩進む度に足元に若干の違和感を感じるが、苦にならない。
かといって、少年時代の霜柱を踏んで楽しむような軽快な気分になるわけでもなかった。

程なくして、ゆらゆらと舞い降りる桜の花びらの向こうに、薄汚れたミルク色のシートが視界に入る。
また、何か建物を建てるのだろうか。
一歩一歩近づいていくと、白い看板が掲げられているのが分かった。
看板の前で足を止め、ざっと目を通してみる。
そこにはどこかの建設会社の名前が書かれていて、建設物の内容が記されていた。
どうやら、ここにはファミリーレストランが建つらしい。
この前、古河の父親と見た場所には病院が建ち、ここにはファミリーレストラン。

目の前に聳え立つ『もの』を見上げる。
雑木林の一角をくり抜いたような場所に存在するこのミルク色の囲いは、そこまで高くない。
しかし決して手の届く高さではないそれは、まるで舞台の暗幕のようで、『お前の登場できる舞台ではない。観客は大人しく行く末を見ていろ』と言わんばかりに自分を見下ろしている。

この町の姿が変っていくのを、肌で感じていた。



     ◇     ◇


バス停に到着すると、すでに杏、古河、ことみが楽しそうに喋っていた。
黒のジャケットに真っ白なフリル付きのワイシャツに、ジャケットとお揃いのマーメイドスカートを格好良く着こなしている杏。
談笑している杏が俺の姿に気が付くと、はちきれんばかりの笑顔で青い空に手を踊らせた。

「朋也ー! こっちこっち!!」

杏の言葉に手を上げて答えると、三人の集まっている方へと近づいた。

「んーやっぱりあたしの見立ては確かだったようね」

間近までいくと、杏が頭の先から靴まで視線を向けて満足そうに頷く。

「おなようございます、岡崎さん」

「朋也くん、おはようなの」

「あぁ、おはよう」

そんな杏の後にいる、古河とことみに挨拶を返す。
二人も杏と同じく、この前デパートで買ったスーツを着ていた。
古河は杏と同じようなスーツを着ているが、中のワイシャツは別のようでフリルはついていない。
ことみは他の二人とは違い、スカートではなくパンツルックで、格好良さでは杏に引けをとってなかった。

「何をそんなにじろじろ見てるの?」

「珍しい格好だからな。どんなスーツ着てるか見ただけだ」

「いやらしい事考えてないでしょうね?」

「考えてない」

「ほんとーにー?」

「くどいぞ」

杏の疑わしいという言葉も軽くいなす。
本当に考えていないのだから、こちらは堂々としていれば良い。

「ま、そういう事にしておいてあげましょうか。でも、渚もことみも可愛いわよねー」

「可愛いというか大人っぽくなったな。ついこの間まで制服着てたんだから、そう思うのもしょうがないか」

「つまんない反応ねぇ……」

「どう答えろっていうんだ……」

相変わらず杏は何を期待しているのか分からない。

「入学式楽しみですね。早く行ってみたいです」

そんな会話を流すように古河が話題を変える。

「まだ時間はあるし焦らなくていいんじゃない?」

「のんびりゆっくり行くの」

「どんな人がいるのか楽しみです」

「知らない人……いじめる?」

「あんたは入学式からマイナス思考になってるんじゃないわよ!」

気が浮いているからだろう、頬を緩ませて話している三人の黄色い声が弾む。
だが、俺はその光景を見て、つい先日までこの輪の中にいた、もう一人の存在、藤林椋を思い出していた。

──これからみなさんとは違う道を歩みますけど、その……遊べる時は仲良くしてくださいね。

引越しが終わり、それぞれが帰路に着こうとした時の言葉。
寂しそうで、本当に不安そうで、でもそれらを押し殺して頬を引きつらせながらも笑おうとしていた椋。
将来の夢の為に、恐らく今まで居心地が良かったであろう杏たちの輪から離れていった。
それ以降、朋也は椋と会っていない。

それ以降、少しだけ椋の事を考えるようになった。
椋がいなくなったのが寂しいという訳ではない。
時が経つに連れて、少しの変化が『当たり前』になるという事が、好ましいことではなかった。
同じままじゃいられない。変わらずにはいられない。
それを頭では分かっていた。高校生活が終わり、色々な何かが変わってしまうのは覚悟していた。
だが、いざ現実を突き付けられると、立ち止まってしまう。
そして…………振り返ってしまう。
頭では分かっていても、気持ちが追いつかなかった思い出したくもない過去を。

「おうおう! 全員お揃いかー?」

「お待たせしてしまってすみません!」

ふと気がつくと、古河の両親が杏たちの会話に入り込んできた。

「お父さん! お母さん!」

二人の登場に古河は嬉しそうな声を上げる。
言動から察するに、どうやらこの二人も入学式に来るようだった。

「あ、おはようございます。お久しぶりです。以前は夕食の招待ありがとうございました」

率先して挨拶をする杏。まるで訓練されたように腰を折って挨拶する辺り、一般の人に対する礼儀はこの中ではずば抜けている。
そんな杏を見て、俺はことみと目を合わせた後、頭を下げた。

「ほーう……? なに、気にすんな! それよりまだ行かないのか?」

「えっと、馬鹿が一人遅れてるんですけど……」

そう言いつつ、杏はチラッと俺へ視線を寄越す。
視線の意味を理解したが、すぐにぶっきらぼうに返した。

「こっちを見られても困るぞ。別に俺はあいつの保護者じゃないんだから」

「となると……まだ寝てるのかもしれないわね……」

「でも入学式は午後からですし、わたしたちが早く集まっちゃったというのもありますしもう少し待っても──」

古河が必死に春原のフォローに回ろうとするが、すでに背後の秋生が獲物を見つけた鷹のような目つきになっていた。

「ほぅ。俺様を待たせる──もとい、こんなにいい陽気だってのに寝てるとな? おい、そこの小僧。そいつの塒に案内しろ。俺が直々に体を動かす事の楽しみを叩き込んでやる。この前いた金髪頭の奴か?」

「えぇ、そいつです」

「あいつは本当にガキだからな……お尻ペンペンでもしてやるか?」

「お、お尻……!?」

杏は顔を紅潮させて顔を背けると、秋生はニヤリと口を歪ませた。
時々生娘みたいな反応をするよなーと思いつつ、とりあえず俺は黙って知らないふりを決め込む。

「なんだ、お尻くらいお前にもついてるだろ? 恥ずかしがることなんて──」

「秋生さん?」

「おっと、なんでもないぞー? 早苗。モーマンタイだ。俺は何も言ってない。いくぞ! 小僧!」

言うが早いか、古河の親父は俺の腕を掴み、脱兎のごとくその場から脱兎のごとく逃げ出す。
残された四人は、ただその状況を見ている事しかできなかった。


     ◇     ◇



「おい、そろそろ止まれって!」

腕を掴まれたまま、俺が叫ぶと、存外大人しく足を止める古河の親父。
一回り以上年の離れた秋生の身体能力は驚くほど高く、元バスケ部エースだった俺でもついて行くのがやっとな程だった。
元と言っても、中学生の頃の話だが。

「ぜぃ……ぜぃ……ふー……はー。よし」

さらに驚くことに、深呼吸が必要なくらい全力で走ったはずの目の前の人間は一呼吸で息を整えてみせる。

「あんたは……ぜぃ……化け物か?」

自分の呼吸を整えながらも、そう言わざるをえなかった。

「で、なんで俺はここにいるんだ?」

まるで今正気に戻ったかのように秋生が呟く。
そんな言葉を聞いて、呆れと腹立たしさで俺は怒号に近い声で叫んだ。

「あんたが無理矢理引っ張って、春原を起こしに行くって連れてきたんだろうが!」

「なんで俺様がそんな事をしなくちゃならねーんだ!!」

「んなもん知るかっ!!」

「ったく生意気なガキ──ん? なんだ、ここも変わっちまうのか」

煙草を取り出して火をつけた秋生は、朋也のさらに後方へと視線を向けて呟いた。
秋生の視線につられて後ろへ振り返った朋也の目に映ったのは、先ほどの工事現場。

「…………そうみたいだな」

「………………」

俺は小さく、どうでもいいように呟く。
古河の父はそれ以上の言葉を発することはなく、静かに煙草を吸って吐き出す。
そんな気まずい沈黙が、煙草が尽きるまで続いた。

「今度はファミレスか……そういえば、お前この前──」

「あいつは俺が起こしてくる。あんたはみんなの所に戻っててくれ!」

止まっていた空気が再び動き始めた時、俺は思い立ったようにその場から駆け出した。
ここから離れたかったのもある。
だが、どんな話題でも今誰とも話す気は起きなかった。
変わり始めた町。
それと『何か』を重ねている今、俺は自分の感情を抑えられるか分からないから。

「え? あ、おい!」

背後から聞こえた静止の声を耳に入れない。
俺は背を向けて走り出した。



     ◇     ◇



川沿いにひっそり佇む、築年数が結構長そうなボロアパート。
美佐枝さんの口添えで、何とか住めるようになった物件。
学生寮ほどの部屋広さで、家具配置はそのまま。
そのままと言っても、寮の備品が半分近くだったのでベッドはなく布団で春原は腹を出し、悠長にいびきを掻いていた。

「しっかし……本当に寝てるとは」

春原の今住んでいるアパートは俺が来た道を半分以上引き返さなければならない。
多分途中で出くわすだろうと思っていたが、結果は今目の前にある状況だった。

「期待していた俺が馬鹿だったな。おい、起きろ。うすら馬鹿」

部屋に鍵はかかっていない。
──盗まれて困るものなんて全然ないから。
そんな事を言って、この部屋は開放されている。
もっともそれは俺にとってありがたいことではあるが。

「おい、こら。起きやがれ」

ちょうど足元に春原の顔面があったので踏みつけてみる。

「んん……そんな事言わずにさぁ……」

「…………」

夢の中で何をしているのかは分からないが、正直こいつのニヤけた寝顔が気持ち悪い。挙句、口を突き出して……なんだろう、見れたものじゃない。というか、俺の足に何をするんだこいつは。
俺は辺りを見回した。
そこにあるのは、脱ぎ散らかされた服。散らばっているジュースの空き缶。袋に入った空き弁当。ゴミ屋敷になるのも夢じゃなさそうな部屋だ。
俺は仕方なしに、少しだけ残っている弁当を手に取る。
そこに溜まった汁。しょうがタレか? それを手に取り、少し中身の入っている缶ジュースに入れる。

「ついでに水も入れてやるか」

水場に行くと、その光景はさらにひどく、カップラーメンの中身までいくつかそのまま置いてある。

「…………」

俺は特に考えることなくその中身も缶に注いだ。
脊髄反射とか条件反射とか、多分そんな感じで。
缶の半分くらいが良く分からない物になったので、俺は満足して春原の元へ移動した。

「おい、起きろ」

起きる気配がないので、仕方なく肩を揺らして春原を起こしてみる。
が、しかし相変わらず間抜けな顔をして夢の彼方へ行っていた。

「仕方ない。お前が悪いんだからな」

すでに匂いが酷く、味なんて考えるだけで恐ろしいが、飲ませれば嫌でも起きるだろう。
春原の顔を天井に向けさせ、鼻を摘み、口を開いた所でミックス缶ジュースを春原の口へと流し込んだ。

「あ……ば……ブグブグ……ボヘッ!! うぇ……ゲホッ……な、なんだ!?」

「やっと起きたか」

「んぇ? 岡崎……? 何しにここに……って僕に何したんだよ!!」

やっと意識が戻ってきたのか、春原は起き抜け早々食って掛かってきた。

「杏の鉄拳目覚ましじゃないだけありがたいと思え。今何時だと思ってる」

「んー十時だね。…………あれ? 今日って」

「そうだな。入学式だ。九時半に商店街前のバス停に集合だ」

「……風邪って事で休んでいいですか?」

「そうか、分かった。でも、杏は心配性だからな。後で看病とかしに来るかもしれないな。友達想いのいい奴で良かったな、春原」

「すみません。支度します……」

俺はため息をついて答えた。
バタバタと慌てて支度をする春原。
準備が終わって待ち合わせ場所に着いたのは十一時過ぎだった。



     ◇     ◇



入学式会場の最寄駅に着いた俺たち。
改札口を一歩出ると、左右に駅の入り口があり、目の前にはコンビニエンスストアがある。
コンビニにはスーツを着用した人々が結構な頻度で出入りしていた。

「場所はどこだっけ?」

「さぁ? 岡崎知ってんじゃないの?」

「お前馬鹿だなー。俺が知るわけないだろ」

「馬鹿はあんたらよ。まったく、何しに来てんのよ。ちょっと待ってて」

入学式の案内書を見ながら、杏は右斜め前の方向を指し示す。

「んー……たぶんこっちかな」

杏の指す方向に俺は目を向けた。
入学式を行う場所は結構でかい建物らしいが、少なくてもここからの視界には入らない。
どうやら少し歩くしかないようだ。

──カシャッ。

ふと、背後からシャッター音が聞こえてきた。
音がした方へ目を向けると、古河の父親がカメラを片手に俺たちとは反対の方向へカメラを構えていた。
どうやら何かを撮っていたらしいが……その先にあるのは改札口。

「秋生さん? どうしたんですか?」

「いや、この時期には見かけない珍しい鳥がいたもんでな」

奥さんの問いに、口元を緩ませて答えた。
目つきの悪さを隠す為か、サングラスをしているのだが、それが口元の怪しさを増長している様に思える。
何かを隠しているみたいだった。

「……なぁ、岡崎。渚ちゃんのお父さん、今スーツ姿の女の子撮ってたよな?」

「…………ふーん」

正直どうでもいい事だが、嫁や娘がいる前でやるなよ、と心の中で突っ込みを入れておく。
気付かない方もどうかしているが。

「ほら、さっさと行くわよー。あんたらのせいで遅れてるんだからシャカシャカ歩く!」

「俺は関係ないだろ!」

「すぐに引っ張ってこなかったんだから同罪よ」

「やっぱり風邪で休ませた方が面白かったか」

「面白さを取るんですか!?」

「いいから、ほら! 行くわよ!!」

後ろから杏にせっつかれたので、俺たちは目的地に向けて歩き出した。




街中を通り過ぎ、坂を上り、辿り着いた場所。
格式のある大きな門を潜り抜けると、桜の舞い散る広い敷地にたくさんのスーツ姿の人々がいた。
俺たちはとりあえず道の端に避け、あたりの様子を伺う。

「結構いるのねー」

辺りを見回しながら杏は感嘆のため息をついた。
俺もここまで大人数とは思わなかった。
やはり高校とは違う、と言う事なのだろう。

「とりあえず適当に入って席に──」

杏が率先して動こうとした──その時だった。

「あのーすみません。お手洗いはどっちでしょうか?」

見知らぬ女の子から話しかけられた杏。
いきなりの事だからか、少し声を上擦らせながら答えた。

「え? えっと、多分あっちじゃないですか?」

「あ、ありがとうございます!」

杏の言葉に、軽く頭を下げてその女の子は走り去っていった。

「知り合いか?」

「なわけないでしょ! あーびっくりした」

顔をほんのり赤くしている辺り、本当にビックリしたのだろう。
右手を胸に当てて、立ち止まっていた。

「あら? あなた腕章はどうしたの?」

そして、間髪いれず声をかけられる杏。

「えぇっ!? 腕章って何ですか?」

「ダメじゃない。係りの人は腕章を付けないといけないんだから。なくしちゃったの? 一緒に探そうか?」

「いや、あたしここの新入生なんですけど……」

早口でまくし立てた親切な係りの人は、杏の言葉に戸惑いながらも俺たちを見回して自分の間違いに気付くと、ごめんなさいね、と早足で去っていった。
その様子をボーっと見ている杏と俺たち。
そんな微妙な間が数秒続くと、杏は深くため息と共に小さく呟く。

「あたしってそんなに新入生に見えないのかな……」

その言葉に答える声はなく、とりあえずこの空気を換えようと、俺たちは気持ち早く入り口へと向かった。


「そうだ。あんたたちトイレとか大丈夫? 入学式の最中に席外すとか恥ずかしいからやめてよね?」

建物の中に入る直前、思い出したように杏が俺たちに注意を促した。
俺と春原は顔を見合わせると、お互いの言いたい事を察知するように頷く。

「幼稚園児や小学生じゃないんだから大丈夫だって」

鼻を鳴らしながら春原が得意気に答えると、あっそとだけ言って少し先を歩く古河とことみの会話に混じりに行った。

「言わなければ思いつかなかったのにね」

春原の呟きはきっと俺にしか聞こえていない。



会場に入ると、古河とことみが感嘆の声を上げた。

「人がいっぱいですっ!」

「人がたくさんいるの」

「これ全員新入生?」

「警備の人や保護者の人以外はみんな新入生でしょうね」

外にいる人たちも結構多いと思っていたが、それとは比べ物にならない程の人の群れが、前の方から所狭しと座っている。
普段は国技やアーティストのライブをやるような場所らしく、二階や三階にも人が見えた。

「上にもたくさんいるのねー」

見渡す限りの人、人。
友達と楽しそうに喋っている者、保護者らしき人と話している者、入学式の案内パンフレットを読んでいる者、遠くからでも分かる場所を弁えずナンパしている者。
様々な人たちがこの建物の中にいた。

「とりあえず座るところを探しましょう」

「そうね。んー……あそこら辺まだ空いてるみたいよ」

「本当ですか? よかったです……ってお母さんどうしたんですか?」

古河の声の先に目を向けると、少しだけ不安そうにしている古河の母親の姿があった。

「渚、秋生さん見ませんでしたか?」

「いえ、見てないです。そういえばこの建物に入ってから見かけていません。どこへ行ったのでしょうか?」

古河が首を傾げながら周りを見回していると、春原がしめたと言わんばかりに口を歪めた。

「それなら僕たちが探してくるよ。な。岡崎」

「え?」

もう少しギリギリまで粘ってトイレに行けば良いとおもっていた俺は、春原の言葉に反応できなかった。
というより、さすがに逃げ出す口実があからさま過ぎるだろう。

「あんたねぇ……」

案の定、杏が呆れた声で口を出して止めに来た──と思ったが、そんな杏の言葉を古河の声が遮った。

「それでは席は取っておきますからお願いしていいでしょうか。春原さん」

「うん、分かった。それじゃ気長に待っててねー」

「あ、でも入学式始まる前には戻ってきてくださいね?」

「はは、分かってるってー」

「それじゃあたしも行こうかしらね」

「げっ」

「何よ。文句でもあるの?」

「え、い、いや……特には……」

「なら、いいわよね?」

同意を俺に取ろうとする杏の向こうで春原が目で助けを呼んでいた。
俺も元からみんなで仲良く入学式なんて儀式めいた物に出るのはごめんだったので、逃げる口実が欲しい。
俺は考えた。そして、先ほど見かけたナンパ野郎の存在を思い出す。

「いや、文句じゃないがお前が抜けたらこのメンバーで席取りしないといけないんだぞ? 周り見てるとなんかナンパしてる奴とかいたし、残りのメンバーを放置するのは危ないんじゃないか?」

俺に言われて後ろへ振り返る杏。
奴の視界に映る、古河母、古河、ことみの三人。

「……」

そのまま杏は固まり、苦々しく言い放った。

「分かった。その代わり……始業式に間に合わなかった場合、分かってるんでしょうね?」

「分かってるさ」

「ならいい。さっさと探してきて」

「りょうかい」

釈然としない顔の杏からの許しを得て、俺と春原は一先ず建物から脱出した。

「案外素直に出してくれたね」

「そうだな。さっさと探してサボるかな」

「え? 探すの?」

「時間つぶしだ。って言っても見当はついてるが……」

先ほどこの敷地に入ってきた時、古河の親父は上を見ていた。
そして絶景ポイントだな、と呟いていたのを俺は聴いた気がする。
その言葉を頼りに俺と春原は敷地の入り口へと移動した。

「なんだよ。いねーじゃん」

見渡しても見えるのは晴れ姿の人々で、黒いシャツとジーパンというラフな格好の古河の親父は見当たらない。
さっきはあそこら辺を見ていたんだよな、そう思って門を見上げた時、黒い物体がモゾモゾと動いているのを目にした。

「いたぞ」

「え? どこ?」

「あれだ」

そう言って俺は門の上を指差す。
どこだよ、と言う春原を誘導して角度を少し変えて見上げると、目立つ赤い髪と全身が確認できた。
カメラを構えているのを見ると、入学式に集まった人たちを撮っているのだろう。

「本当にいた! ……っていうか、どうやったらあんな所に上れるんだよ!」

「知らん」

「で、どうすんの?」

「とりあえずすぐに声かけられる状態じゃないからな。入学式開始くらいまでここら辺にいるか」

春原は俺の言葉に頷くと、飲み物買ってくると言って人ごみに消えていった。
俺は近くのベンチに腰をかけ、人の流れをボーっと見る。
なんとなく思い出される卒業式の風景。
その後、幸村はどうしているのだろうか。
あの恩師に顔向けできる大人に……俺はなれるのか。

──これは朋也くんのものだから。

不意に、ゾクッと背筋に悪寒が走った。
まだ記憶に新しいあの言葉が、俺の血液の流れを早める。

「おう、小僧。何を眉間に皺を寄せていやがる」

気付けば古河の親父が隣に座っていた。

「別に」

俺は頭に上った血が一気に下がるのを覚え、いつの間にか作っていた握り拳を解いた。

「ま、なんでもいいや。それよりお前これから俺を手伝え」

「は?」

「ちょっと人手が欲しいところなんだ。どーせお前入学式サボろうとしてんだろ?」

「……春原が来たらな」

サボろうとしていたが、この人の手伝いをするとなると面倒臭そうだ。
俺は適当にあしらって、どこか人気のない場所でも探して居眠りしようと立ち上がった。

「お待たせー気の良い奴に二本も奢ってもらっちゃった」

そしてタイミングを見計らっていたのか、とでも言いたくなる様な時に帰って来る春原。

「よーし、二人とも手伝え」

なになに、と現状を分かっていない馬鹿と、もう逃がす気はないと目で語っている古河の父親。
俺は盛大にため息を吐いた。



     ◇     ◇



「で、あんた達はなんであんな事してたわけ?」

入学式の帰り道、杏は呆れたような声で疑問を口にした。
入学式前に俺と春原を放った時点で、戻ってこない事は考慮していたのだろうが、予想もしてない事態に呆れているようだった。

「俺だって好きであんな事になったわけじゃない」

「そうそう。何だかんだ楽しかったしねー」

入学式なんて退屈な事よりも、こっちの方が楽しそうだったからなんて言えば嫌味やら怒られるのは明白だ。
俺と春原と古河の親父は、入学式の真っ只中にカメラ屋へと向かった。
現像に一時間近くかかるその間、次に写真を張り出すための掲示板みたいなものを作る。
そうして入学式が終わり、入り口付近が混雑している中、目立つように置かれた掲示板が注目を集めていた。

『光坂大学入学式 美男美女トップ20』

そうかかれている掲示板に、思った以上に人が押し寄せ大混乱だった。
警備の人を一度は大学の関係者だと説き伏せた古河の父親でも、ここまでの騒ぎになるとは思わなかったようだ。
結局、掲示板を飾った人を見つけて写真とパンをプレゼントする企画は志半ばで切り上げさせられたのだ。
というか、男までちゃんと撮っていたのが驚きだった。女ばかりを狙っている物だと思っていたのに。

「だからって何もあんな事しなくても。下手すると盗撮疑惑で捕まっちゃうわよ?」

「大丈夫だ! 俺様の見た感じみんな喜んでくれてたぞ?」

「そりゃ自分の晴れ姿と一緒にパンをタダで貰えれば悪い気はしないでしょうけど……」

杏は納得行かないというように口を噤み、そのまま黙ってしまう。

「でも、朋也さんと陽平さんは新入生なんですから二人は入学式に出さないといけませんよ? 秋生さん」

「考えてみればそうだったな……すまんな! お前たち」

「いえ、気にしてませんから」

「そうか! やっぱりこっちの方が楽しかったもんな!」

手を俺と春原の肩に回し、胸元をバンバンと叩く。

「お父さんきっと反省してません」

「まーな! わはは」

古河の親父が豪快に笑うと、仕方ないなという風に古河母娘は顔を綻ばせた。

「でも、本当になんであんなことをしたんだ?」

俺は当初より疑問だった事を質問してみた。
いきなりいち保護者があんな事をするなんてどう考えてもおかしい。
というか、普通はこんな事しないと思う。
別に責め立てる気は起きないが、理由が知りたかった。

「何でってそりゃ機会があれば晴れ姿を写真にして残したいだろう? こうすればみんな楽しめると思ってな」

「…………そうですね」

「そうだろ? だからやった」

「え、それだけ?」

あまりにも予想外な答えに、素のままのまぬけな声が出てしまった。
もっとこう、金儲けが出来るとか顔が売れるとか、パンを渡していたんだから売名行為としてやったとか、例えばそういう目的でやったのではないのか。

「他に理由なんてあるかっての」

「って事は、それだけの為に僕たちは手伝ったわけ?」

動機に一番ショックを受けたようで、春原は肩を落とす。
確かに別にお金を取っていた訳でもなく、古河パンの名前を出した訳でもないので、これが本心なのだろう。
改めて、無駄な事をしたのだと春原に続いてため息をついた。
すると、古河の親父は女性陣に聞こえないようボソッと呟く。

「なに。お前らにも美味しい思いはさせてやるさ。後で好きなタイプの子の写真持って行っていいぜ」

「マジっすか?! それなら僕あの胸がでかくて唇がエロかったあの子がいいです!」

「おーあいつか。お前も好きだなー金髪。おい、お前はどれがいい?」

「いらん」

正直、俺にはどうでも良いことだった。
写真なんかもらっても何の嬉しくもない。

「あー、渚ちゃんのお父さん。こいつ杏と付き合ってるんで可愛い女の子の写真持ってると何されるか分からないんでビビってるんですよ」

春原はニヤリと口元を歪めながらヒソヒソと話す。
別にこれくらいの事で頭に来てたら今頃俺の頭は活火山だ。
そう思って、別に写真なんてもらっても嬉しくないだろう、と言うと古河の親父はほーう、と俺の顔を覗き込んだ。

「なら、お前にはあの子の写真を進呈しよう」

「あの子って……杏のか? いつの間に」

「さーてな。話をしている女の子は無防備だから撮りやすかっただけさ」

そう言って出てきたのは四枚の写真。
背景を見ると、昼間の待ち合わせの場所だろう。
目の前を歩いている四人の笑顔で話している写真だった。

「写真もいきなり撮るのは素人。何枚か撮って調整しないとな」

「…………」

「どうだ?」

隣を見ると、春原が笑いを堪えてる。
目がこれからの出来事が手に取るように分かると言っている気がした。

「ちなみに早苗と渚の写真を要求した場合、俺はその事実を目の前の四人に容赦なく打ち明ける。尾ひれなんてもんじゃない。背びれも目玉もつけてやる」

「いいからもらっちゃえば?」

「…………ください」

心の中で何かが折れた気がした。

「そうだよなー! 分かってるって。これはお前のもんだ」

そう言うと、器用に俺のスーツの内側にある胸ポケットに写真を差し込んだ。

「何してるのー? あまり遅く歩いてると置いてくわよー?」

「おぉっとすまんすまん。今行くぞー」

そう言って古河の親父は俺と春原を腕から解くと、元気よく奥さんの隣へと戻っていった。

「ほーら渚、可愛く撮れてるだろー?」

「えっ? お父さんいつの間に撮ってたんですか!?」

「影から支えるように、な。父はお前をいつでも見ているぞ」

「あ、ありがとうございます」

「良かったですね! 渚」

「はいっ!」

そんな古河家の会話を少し後ろから見ながら、俺たちは歩く。

「ほんと仲が良いわよね。渚の家族って」

「とってもいい事なの」

「なんか見てて羨ましく思えるよねー」

三人が前の三人を見て感想を口にするが、俺だけはその流れに乗る事が出来なかった。
仲のいい家族を見て、羨ましいと思える余裕が俺にはない。
そうだな、と口にすれば良いだけの事なのに、まるで体が拒否しているかのように言葉が出なかった。

「朋也?」

無言になっている俺が気になったのか、杏が隣から顔を覗き込んでくる。

「あぁ、悪い。考え事してた」

「……ふーん。そう? ちゃんと話に加わりなさいよねー?」

そう言って俺の腕を引っ張った。

「おーおー仲が良い事で」

「朋也くんと杏ちゃんもとっても仲が良いの」

「へへーいいでしょー」

「振りほどいて良いか?」

「おっ? 岡崎が恥ずかしがってるー」

「うるせぇ!」

「あははー!」

杏の重さを左腕に感じながら、俺たちは家路についた。










<< 第六話へ 小説置き場へ戻る 第八話へ >>



 感想や誤字脱字等がございましたら、掲示板または作者宛てのメールなどで報告お願いします。

掲示板へ