「よっ」

「なんだ?」

「朝の挨拶だよ。分からないの?」

「あいにくと春原語は習得してなくてな」

「そっか。じゃー岡崎落第だな」

「いや、入学もしなくないわ。そんな動物学校」

「…………岡崎って実は僕のこと嫌いだよね?」

「そんな事ないぞ? 哺乳類で勘弁した辺り、どれほどお前に好意をよせているか分かるだろ?」

「おっはよー! 朋也!」

「よっ」

「お前も使ってんじゃないか!!」

「朝から騒がしいわねー。このゾウリムシ」

「な?」

「…………そうですね」


入学式から数日。
健康診断、授業の割り振り、顔も知らない大人数を集めた学科の説明会。
俺たちは新しい生活の波に飲まれていた。
正直俺一人……いや、春原と二人でいたら目が回って何も出来なかった自信がある。
授業の割り振りなんて意味が分らない。
大学の授業は単位制。好きな授業を自由に決める事ができるこのシステムは、自分から動かなければ何もできない諸刃の剣だった。

「朋也は一限は三号館ね。あんたは六号館。今日からサークルの勧誘が始まるらしいわよ。あんたたち羽目を外すんじゃないわよ?」

まるでマネージャーのように今日の予定を語る杏。
何を隠そう、授業の割り振りを考えてくれたのはこいつだった。
食堂で春原と時間割がないと話していたところ、大学のシステムについて説明をしたあと、見る気も起きなかった分厚い本『シラバス』を片手に授業を組んでいった。
あくまで、俺たちが出来るであろう範囲での選択だから無理強いはされていない。
それどころか、いつの間にか作った友人ネットワークにより誰の授業が楽か、出欠を取る授業なのかなど、ある程度の情報を持っていたので、楽なスケジューリングができたのだ。

「今日は一緒の授業があるわね。あたしより早く来れたら席とっておいてくれる?」

気分良さそうにしている杏。
朝から気分がいいのはいい事だ。

「ん、了解」

「あの、僕の事忘れてませんか?」

「まだいたのか?」

「もう先に行ってたのかと思ったわ」

「はは。親友の岡崎を置いて僕が先に行くなんてあるわけないじゃないかー」

「あ、そ」

「リアクションうすっ!」

「馬鹿なこと言ってないで早く行くわよ」

「おはようございます、みなさん」

「おはようなの」

「あ、渚、ことみ。おっはよー」

そんな高校時代から変わらないやり取りを行いながら、大学へ歩き出した。




第八話   新しい学生生活




「お願いしまーす! ラクロスサークルでーす」

「ヨット愛好会です! 大いなる海原で一緒にヨットに乗りませんか?」

午後四時過ぎ。
大学の正門前の広場には、たくさんの人たちで賑わっていた。
どうやらサークルの勧誘をしているようで、試合に装着するような試合具をつけてパフォーマンスを行っている。

「なんかどこもかしこも人でいっぱいね。帰るのに一苦労だわ」

食堂のテラスから眼下に広がる人の群れを見ながら、音を立ててストローを啜る杏。
ふと、そんな杏の隣で古河がそわそわしている事に気付いた。

「古河、どうかしたのか?」

チラチラと伺うように広場を見ていた古河は、驚いた顔をして「えっと……」と言い淀んでいる。
やがて意を決したように、口を開いた。

「演劇部ってあるんでしょうか」

「演劇サークル? んー探せばあるんじゃないかな?」

興味を持ったのか、杏が答える。
探せばと言っている辺り、「あんだけ人がいればそりゃあるでしょ」という尖った意味で捉えてしまう俺は捻くれているのだろうか。

「渚、演劇サークルに入りたいの?」

「えっと……はい、見学だけでもって思ってます」

そういえば一年前も同じような事を言っていた様な気がする。
結局演劇部はなくて、部活の立ち上げを手伝うとか手伝わないとかの話が有耶無耶になっていたが、てっきり諦めたと思っていた。

「ふーん? そういう事なら、みんなで探しに行ってみますか! どうせあの群集を抜けないと帰れないんだし」

「本当ですか!?」

杏の提案に古河の顔が綻ぶ。
嬉々としてありがとうございますと言っている古河を見て、杏も笑みを浮かべた。

「あんた本当に演劇が好きなのねー? ま、この程度の事で遠慮しないでよ。見学でしょ? 別に一緒に入るっていうわけじゃないんだし。ね? 朋也」

「ま、そうだな」

「ことみも行くわよね?」

「えっと……いじめない?」

「いじめないって。もしあんたをいじめる奴がいたらあたしがぶっ飛ばしてあげるわよ!」

「うん……なら行くの」

「えーみんな行くのー?」

机に肘をついて気だるそうにしている春原。
こいつは部活などを嫌っているのだからこういう事には消極的だ。

「別に行きたくないなら陽平は来なくていいわよ?」

「っていうかお前は面倒な事になりそうだからむしろ来るな」

「うーん。そうしようかな」

「え? 珍しいわね。いつもなら『僕がいないと締まらないよね!』とか言って率先して話に乗ってくるくせに」

「別に。で? 岡崎も本当に行くの?」

春原は敢えてだろう、『本当に』という部分を強調して訊ねてくる。

「当たり前でしょ? 何言ってるのよ」

俺の代わりに杏が答える。
春原は杏の声を無視して、目線を俺に寄越す。

「まー付き合うだけ、な」

「ふーん?」

「あんた、言いたい事あるならハッキリ言ってくんない?」

「何も無いってば。じゃ、途中まで一緒に帰ろうか」

「春原さんは来ないんですか?」

「僕は遠慮しておくよ。上下関係とか顔を立てるとか、面倒くさいしがらみは嫌いだからね」

そう言って春原は立ち上がった。



     ◇     ◇



「あははは! そーれイッキ! イッキ!」

数時間後。
大学の最寄り駅近くの居酒屋に俺たちは腰を落ち着けていた。
説明会と歓迎会と言う名の飲み会が始まって二時間が経過した頃、酔って騒いでいるグループと静かに談笑しているグループに分かれていた。
このサークルは演劇を『観る』サークルのようで、演じる方を考えていたであろう古河は肩を落としたが、隣にいた女の先輩と馬が合うのか楽しそうに話している。酒は未成年なので、と断っていたが。
酒を飲む上級生のほとんどが騒がしいグループに行っているようなので、元々付き添いで来ていた俺たちに積極的に混ざってくる人はいなかった。

「結局付き合っちゃったけど、特に何も心配することなかったわね」

「そうだな」

「心配?」

「あんたと渚はぽやーっとしてるから大学みたいな場所だと、コロッと騙されかねないからね」

「…………詐欺師?」

「そんな大げさなもんじゃないけど……そうね。攫われて薬漬けにされて外国へ売り飛ばされちゃうとかね」

杏は目を細めてことみへ視線を流す。
ことみはビクッと肩を震わせて、俺の後ろに隠れてしまった。

「あーことみ。今のは杏の冗談だから怖がるな」

「ほんと? ほんと……? いじめない?」

「いじめはしないけど、これからは何があっても自己責任だからね。自分の身は自分で守らないと大変なんだから」

「そう気張らなくてもいいんじゃないか?」

「つい最近だって通り魔事件があったばかりでしょ? まだ犯人は捕まってないんだし、いつでも注意しておく事に越したことはないわよ」

「通り魔?」

「そう。だから今日もみんなで一緒に帰るわよ。朋也、みんなを送って行ってちょうだいね」

「なんで俺が──」「アハハー!! 春原一等兵! イッキいっきまーす!」

俺の声を遮る様に、騒がしいグループが更に一段と盛り上がりを見せる。
その中心になって聞こえたのが春原の声だった。
話の腰を折られた杏はため息混じりに呟く。

「結局なんだかんだで一番陽平が楽しんでるわよね」

「確かに」

演劇鑑賞サークルの集まっている場所まで付いてきた春原。
そこで俺たちと別れて帰ろうとするも、ただで酒が飲めるという誘いに見事釣り上げられて、結局歓迎会について来たのだった。

「とっても楽しそうなの」

「ダメよ、ことみ。馬鹿が移るから」

「あまり大きな声で言うな。他の人の事を言ったと勘違いされかねない」

そう言った杏が指さす先には、顔を赤くさせて中ジョッキを掲げている春原がいた。
長机を二つ挟んでいるこの場所からでも、春原が出来上がっていることは歴然。
同じように席を囲っている人々も周りにかける迷惑度は同じようなものだった。
そんな悪口とも取れる話をしていると、不意に誰かが杏の横へと座った。

「ここ、いいかしら?」

「えへへ。来ちゃいました」

それは古河と話していた女の先輩だった。隣に古河もいる。

「何の話をしていたのかな?」

「えっと……すみません。なんだかうちの馬鹿が五月蝿くしてしまって……」

酔って騒いでいる群衆へ呆れの視線を送る杏。
同じ場所に視線を送る女の先輩。だが、その口元は緩んでいて温かみが感じられた。

「大丈夫よ。あいつら何かにつけて飲みたがる馬鹿ばっかなんだから」

「えっ……あ、そんなつもりじゃなくて……。あの先輩は……」

「あ、ごめんなさい。自己紹介……はさっきしたからいいわよね? 気軽に部長って呼んでね」

グラスを傾けながらもおしとやかに話す様は、まるで高級ホテルでワインを飲んでいるように優雅で、タバコの煙と酒の匂いと騒音が自己主張をするこの場には似合わないような人だった。
そんな人の言葉なので、ついついどうも、と頭を下げて恐縮してしまう。

「ふふ。そんなに畏まらなくていいわよ? あいつらみたいにとは言わないけど、リラックスリラックス」

クスクスと笑う姿もやはり上品に思える。
それは杏の同じようで、こっちに視線を向けてどうすればいいか困惑しているようだった。
そんな俺たちを見て気を利かせてくれたのか、部長はグラスを傾けると口を開いた。

「大学生活だって初めてでしょ? サークルの事じゃなくても何でも聞いてくれていいわよ?」

「えっと、質問なんですけど、他のサークルもやっぱりこんな感じで飲み会とかやるんですか?」

怖ず怖ずと口を開く杏。
部長はニッコリと笑みを零すと、嬉しそうに話し始めた。

「うちは演劇をするわけじゃなくて観るサークルだから、舞台を見た帰り道にお酒の席で討論をよくしてるの。大人数で押しかけて話ができる場所なんて居酒屋と会議室くらいだしね。他のサークルの話を聞く限りでは、新入生を歓迎する飲み会はやっぱりどこも同じ感じなのかも。ごめんね? 今日は酷いけど、いつもは違うのよ?」

場を和ませるためか、酔っているのか分からないが、はにかみながらもしっかりと杏の問いかけに答える部長。
その人柄に心を許したのか、杏は部長の方へと少しだけ近づき、様々な質問を始めた。
その隙を見計らって立ち上がり、俺は目的の場所へ向かう。
早い話がトイレだった。
入り組んでいる訳でもないので、それは簡単に見つかったが、数人順番待ちをしてた。

「おーっかざーきくーん。たのしくーのーんでるー? でへへー」

どうやら背後に春原が来たらしい。
振り返ってみれば、すっかり出来上がっていて、だらしなくその顔を緩ませている。
見ていると、段々コイツの顔が無性にむかついて、何か悪戯でもしようと考えるが、もし、溜め込まれた物を出されたら洒落にならないので我慢することにした。
海よりも深い俺の慈悲に感謝するんだな。春原。

「ずいぶん盛り上がってるみたいだな」

「えー? そんなこーとないよー? あははヒック!!」

遠慮なく肩を叩いて来る馬鹿。
殴るか叩くかど突くかしたい衝動に駆られたが、何とか踏みとどまる。
後ろを確認すると、次の人が終われば俺の番だから少しだけ我慢しよう。

「酒飲んでしゃっくりするって本当だったんだな。程々にしておけよ? 帰れなくなっても面倒見ないからな。俺も杏も」

「だーうぃじょーぶだとぇっぷ」

何か込み上げる物があるのだろうか。呂律が回ってないと思ったら、今度は口元を押さえ始めた。

「おっぷ」

「…………おい、まさか!? やめろよ!? こんな所で──」

「!!」

口に出せない背筋が凍るような恐怖を感じたその時、背後で丁度トイレの扉が開いた。
俺は振り返り、春原の肩を掴んで先に押し込んでドアを閉める。
途端、叫び声とも唸り声とも似付かない音が聞こえてきた。
一体俺は何をしているんだろうか。

「はぁ……」

扉にもたれかかると、ため息しか出なかった。



     ◇     ◇



桜が散り始め、瑞々しい緑が景色を飾る──はずの四月下旬。
歓迎会が終わって数日。
古河はどうやら演劇(観劇)サークルには入るのはやめたようだった。
自分で演技をするサークルがいいらしいが、運悪く何処にもその類のサークルはなかったのだ。

「元気出しなさいって。なんなら自分でサークルを立ち上げるっていうのは?」

「はい、お父さんに相談して課の人に聞いたんですが……サークルの最低人数は十人だそうで……とてもじゃないですが、わたしには無理です……」

古河のサークル話、その後がどうなったかを話のタネにして歩く大学の帰り道。
こういう空気は高校時代と何も変わっていなかった。

「あたし達入れても四人……か。全然足りないわね。んー流石に高校と違って大学は規模が違うわねー」

「ナチュラルに俺もカウントされてるみたいだが、俺は入らないからな?」

「なんでよ。渚が困ってるのよ? ことみだって手伝ってくれるし。ねっ? ことみ」

「?」

なんだかよく分からないと言った、トボけた様な顔で杏の顔を見返している。
ことみも勝手に巻き込んでいる事は明白だ。
どうやってこの状況を打破しようかを考えていると、古河が申し訳なさそうな声で呟く。

「いえ、大丈夫です。演劇をやりたいのはわたしの我侭ですから。それに、十人集める事が出来なければやっぱりサークルは立ち上げられませんから」

乾いた笑顔を貼りつけて力なく笑う古河。
杏もそれ以上の事は言わず、そっか、と呟くだけだった。
しばらく無言の時が続く……。
とりあえずこの空気を変える為に、俺は口を開いた。

「そういえば春原ってなにしてるんだ?」

「この前、帰りにどっかのサークルの歓迎会に行ってたみたいよ」

「昨日わたしも見ました。あれって歓迎会だったんですか」

「もしかしてあのバカ、『ただで酒が飲めるー!』って考えで歓迎会に行ってるんじゃ……」

「……それ以外に考えられないだろうな」

あのバカは本当に良くも悪くも本能に忠実だからな。
どうせ新入生歓迎会期間が終われば、落ち着くだろう。

「ま、すぐに歓迎されなくなって追い出されるのが関の山ね」

「そうだな」

「春原さん大丈夫でしょうか?」

「心配することないわよ。自業自得だし」

「春原くんイジメられるの?」

「なんかあったら逃げるだろ。無駄な心配だ」

「あれ、なんか空が曇ってきたわね……予報だと今夜遅くからって言ってたけど早くなりそうね──」

杏の言葉で、全員が話の切り替え時を感じたようで、それ以上春原の話題は出ることはなくなった。



     ◇     ◇



杏が言った通り、雨は数時間とかからない内に降り始めた。
この時期ではそこまで珍しくもない雨だが、今日の雨脚はだんだんと強くなっていって、ついには雷の音が時折聞こえてくる程になってしまっていた。
静かに部屋で暇潰しようとしていたが、それも雨が地を叩く音により諦める。
とりあえず何か飲もう。俺は階段を降りてキッチンへと踏み入れようとしたその瞬間、玄関扉の開く音が聞こえた。

「…………」

「あぁ、朋也くんか。凄い雨だね。おかげで濡れてしまったよ」

「……そうかい」

偶然にしても趣味が悪い。
髪も眼鏡もワイシャツも濡らしながら玄関先で立っている見窄らしい男の姿を見て、怒りにも似た感情が昂ってきているのが分かった。
これ以上、顔を見ているのはまずい。
俺は背を向けて二階へと駆け上がり、部屋に入ると同時に力任せに襖を閉めた。

「すぅーっ……ふーっ……すぅー……」

胸に湧き上がる感情を抑えつけるために、力一杯息を吐く。
呼吸を整えて頭を空っぽにする。
緊張した時、ここ一番で外してはいけない時、バスケの試合で何回もやってきた心を落ち着ける動作。
しばらくして、けたたましい雨の音が耳に戻って来た。
俺はベッドへ腰をかけ、そのまま仰向けに倒れ込む。

「……」

カーテンを開けて空を見上げた。
どこまでも暗い曇天の中、いくつもの白い線が降り注ぐ。
なぜ、こんなにも動揺しているのか。
それもそのはず、『あの時』から俺は意図的に親父を避けていたから。
なるべく顔を合わさず、声もかけず。
けど──いや、やめよう。今こんなことを考えても仕方がない。
カーテンを閉めて、俺は何も考える事がない夢に落ちようと目を閉じた。



     ◇     ◇



ドシャッ。

「──ん……?」

頭がボーッとする中、俺は体を起こした。
今、何か音がしなかったか?
目を擦りながら時計を確認してみる。
時計は一時を指していて、眠りについてからそんなに時間が経っていないことを示している。
カーテンの隙間から窓の外を見ると、吸い込まれそうな闇が広がっている。
雨は寝る前よりかは弱まっていて、このまま弱まっていけば明日の朝までには止みそうだった。
なんで目を覚ましたかも忘れて、再び眠りにつこうとした時。

ドシャッ。

目を覚ました時と同じ音が外から聞こえるのが分かった。

「……なんだ?」

さっきまでだったら雨の音で掻き消されていたであろうその音は、今の雨音では十分に耳に届く。
俺はベッドから身を起こすとカーテンを開けて、下を見た。

「春原?」

暗くて良く見えないが、特徴のある金髪と背丈。
また、前のデパートみたいな似た人かと思ったが、足元がフラついていてすぐに前のめりに倒れる。
ドシャッ。
この音だったのか。
俺は階段を降りて──誰も起きている気配がないことを確認して、玄関のドアを開いた。

「おい」

「うーあー? ……あんだよー?」

すっかり酔っ払っている迷惑男は確かに春原だった。
昼間見た服装は雨と泥で汚れてボロボロになっている。

「んー? あれ、おかざきー? あにしてんのーおんなほほろで」

「…………ここは俺が住んでる家だ」

「へー! そーなのかー! らじめてひった! あっはっはっ!」

「それよりお前こそ何やってんだよ」

「きあってるだおーいえにーけーるんらよー」

「家ってまさか大学の方から歩いてきたのか?」

「おかざきくん! へいかい! ひゃははー!」

正解と言いたかったのだろう。
明らかに呂律が回らない口調で家に帰ると言っているが、春原のアパートはコッチ方面ではない。
辿りつけ無いのは火を見るより明らかだった。
いつもなら頑張って辿りつけよーと気のない応援でもして家に帰るところだが……。

──つい最近だって通り魔事件があったばかりでしょ? まだ犯人は捕まってないんだし。

杏がこの前言っていた通り魔事件。
まだ犯人は捕まっていないと言われている。
そんな中、こいつを放置して襲われでもしたら気分が悪い。
というか、こいつなら俺に取り憑きかねない。
しかし──。
今この家に上げて良いのだろうか。
今、親父がいる。
もし、春原を家に上げれば顔を合わせる事は避けられない。その時、俺はどうすれば──。

「へ、へ……ヘイックシュッ!! じゃーぼくはもういふでー」

春原の声を聞いた時、なぜだか杏の笑顔が過ぎった。
……そうだよな。お前なら見捨てるなんて死んでもしないだろうな。

「おら、こっち来い」

「ふぁ? っととと」

俺は春原の腕を引き、家の中へと戻った。



     ◇     ◇


「ふぇっくしゅん!!」

「ほら、コーヒーでいいだろ」

「あぁ……さんきゅ。ズズッ……ってあちちち!」

「静かにしろ。何時だと思ってるんだ」

「あ、悪い」

とりあえず風呂に入れて汚れを落とさせた後、俺の部屋にとりあえず連れてきた。
着替えの服なんて考えていなかったから、とりあえず高校の制服を着させている。

「はぁ……」

「何溜息ついてんの?」

「お前のせいだ」

「まーいいじゃん! それより僕岡崎の家に遊びにきたの初めてだよ! 中々良い家に住んでるじゃん」

「遊びじゃないけどな。っていうか酒が抜けたなら帰れよ」

「まぁまぁ。布団まで敷いてくれたんだから遠慮なく朝までいさせてもらうよ」

「遠慮しろよ……」

「なんかこうやってるとワクワクするな。修学旅行の夜みたいな」

「修学旅行なんて無口な奴らと一緒の部屋で何事もなく消灯時間には寝てたがな」

「あれ? そうだっけ」

「酔ってればすぐ寝ると思って敷いた布団だったが、風呂から上がった春原はすっかり酒が抜けたようで、今は普通の様子だった。迷惑この上ない」

「あんた心の声が口に出てますよ……ってまぁいいや。体がダルイのは本当だし、寝かせてもらうよ」

「あぁ。さっさと寝ろ。そして俺が寝たら出て行け」

「へいへい」



そして翌朝。
俺が目を覚ますと、春原の姿はなかった。
言った通り、すぐに帰ったんだな。
カーテンからは眩しい陽の光が差し、昨日の天気とはうって変わって快晴になりそうな予感をさせる。
今日も大学がある。
俺は服を着替え、洗面所へ向かおうと階段を下りた。その時──。

「へー! 親父さんてそんな事してたんですかー」

帰ったと思ったはずの春原の声が聞こえる。
まるで誰かと話しているような…………。
気付いたら俺は急ぎ足で居間へと向かっていた。

「なにしてんだよ!!!」

襖を開けると同時に俺は叫んだ。
一番警戒していた、あってはならない事が起こってしまった事を悔やみながら。
そして、直視したくない、認めたくない目の前の光景に、俺は顔を伏せた。

「お、岡崎。どうしたんだ?」

「……朋也くん、おはよう。どうしたんだい? そんなに慌てて……」

「ん?? 朋也…………くん?」

違和感を感じ取ってしまった春原がその違和感を口にする。
それだけで、もう耐えられそうにはなかった。

「出て行け……」

「はい?」

「春原……悪い。頼む。出て行って来れ……」

ギリギリの理性で、精一杯感情を押し殺して、春原に出て行くよう促す。

「…………分かった」

元々物分りのいい春原なので、俺の言葉に深く追求せず、俺の部屋に戻った。
荷物を取りに行ったのだろう、すぐに戻ってくると、

「制服は洗って返すよ。それじゃ大学でな」

背中越しにそう言い残して、玄関の扉を閉めて行った。
その様子を微動だにせず見ていた親父が、ついに口を開く。

「朋也くんのお友達かい?」

「…………」

「彼は風邪──」

「関係ないだろ。何してんだよ。勝手に人の領域に入ってくんなよ!!」

そう吐き捨て、自室へと戻り、大学で必要なものを乱暴に鞄に詰め込む。

そして財布と鞄を手に持ち、逃げるように家を飛び出した。










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